平野国臣 イラストポートレート

江戸時代編.61

シリーズ:法と義のあいだに生きた者たち 第7回

平野国臣

Hirano Kuniomi

法を越え尊王の義に殉じる

1828–1864 | 出生地:福岡県 | 政治の部屋

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教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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「法を越え尊王の義に殉じる」平野国臣の物語

どのような時代を生きたのか

平野国臣が生きた十九世紀半ばは、1853年のペリー来航を契機に、二百五十年以上続いた徳川幕府の秩序が大きく揺らぎ始めた時代でした。

国臣は1828年(文政十一年)、福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の子として生まれます。足軽という比較的低い身分にありながら学問や和歌に親しみ、国学を学ぶなかで尊王思想を深めていきました。やがて志士・梅田雲浜との出会いが大きな転機となります。

国臣は西郷隆盛、真木和泉、清河八郎ら各地の志士たちと交流を重ね、やがて藩や身分の枠を越えて尊王攘夷運動の渦中へと身を投じていきました。幕府の秩序が揺らぐなか、多くの人々が「何に忠義を尽くすべきか」を問い始めた時代でした。国臣もまた、その渦中にいたのです。

この人物が向き合った「法と義のあいだ」とは

国臣が向き合った「法と義のあいだ」とは、「幕府と藩が定める秩序と、天皇を中心とした国づくりを目指す尊王の理念との衝突」でした。

江戸時代において、武士が藩の統制を離れて活動することは重大な問題でした。まして諸藩の志士や公家と連携し、政治運動を行うことは既存秩序への挑戦でもありました。国臣は、幕府体制の維持よりも、日本の進むべき道を示すことこそ重要だと考えるようになります。安政の大獄では、幕府の追及を受ける僧・月照の薩摩逃避行にも関わりました。

法に従って生きるのか。
それとも、自らが信じる大義のために行動するのか。
国臣が向き合ったのは、まさにその選択でした。

この人物が選んだ「答え」とは

国臣が選んだ答えとは、「たとえ法に背いても、尊王の理念のために行動すること」でした。

1862年(文久二年)、島津久光の上洛を機に志士たちが挙兵を計画した寺田屋騒動に連座し、国臣は捕縛されます。それでも国臣の志が衰えることはありませんでした。翌1863年(文久三年)、国臣は公卿・澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵します。いわゆる「生野の変」です。八月十八日の政変によって尊攘派が京都から追われていたこともあり、挙兵は短期間で瓦解しました。

国臣は捕らえられ、京都六角獄舎へ送られます。生野の変における国臣の立場については、自ら主導したという見方もあれば、周囲の志士たちの動きに押された側面を指摘する見方もあります。少なくとも、自らの信念のために危険を承知で行動したことだけは確かでした。

国臣が選んだのは、安全な立場ではなく、義に殉じる道だったのです。

その生涯は何を残したのか

1864年(元治元年)、平野国臣は三十六歳でその生涯を閉じました。

禁門の変による京都市中の混乱のなか、六角獄舎にも危険が及ぶと、収監されていた国臣ら尊攘派の志士たちは処刑されます。正式な判決を待たぬまま命を絶たれたその最期は、幕末という時代の激しさを象徴するものでした。国臣が直接見ることはありませんでしたが、彼らが追い求めた尊王運動は、その後の明治維新へとつながっていきます。
身分の低い足軽の子として生まれながら、藩の枠組みを越え、自らの信じる理念のために行動し続けた平野国臣。

彼の生涯が語るもの、それは人を動かす力は地位や権力だけではなく、理想を信じる情熱にも宿るという事実です。

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 烟はうすし 桜島山

国臣の名とともに伝わるこの歌は、彼が抱き続けた情熱を象徴しているようにも見えます。まさに「法を越え尊王の義に殉じる」という副題にふさわしい、既存の秩序を越えて理想を追い求め、その渦中で命を落とした志士でした。

Coming Next

明日は、大塩平八郎

平野国臣が示したのは、藩や身分の枠組みを越え、尊王という理念のために命を捧げる生き方でした。

そしてシリーズ最終回に登場するのは、もともと「法を守る側」にいた人物です。大坂町奉行所の与力として法を執行していたにもかかわらず、飢饉に苦しむ人々を救うため、自ら幕府に反旗を翻した男がいました。

明日お届けする最終回は、「法を捨てて民のために蜂起する」大塩平八郎の物語です。

シューちゃん

今回のシリーズ「法と義のあいだに生きた者たち」って!?

Series

法と義のあいだに生きた者たち法を越え尊王の義に殉じる

法と義が、まだ一致していた頃

享保の改革から幕末に至るまで、江戸社会の秩序を支えていたのは、幕府が定めた「法」でした。しかし、その法を運用する現場では、条文を機械的に当てはめるだけでは人々の暮らしを守れない場面が少なくありませんでした。

八代将軍・徳川吉宗のもとで江戸南町奉行を務めた大岡忠相は、『公事方御定書』の編纂に関わる一方で、庶民の実情に目を向けた行政を行いました。幕末に近い時代に活躍した遠山景元もまた、現場の声に耳を傾けながら法を運用した奉行として知られています。彼らにとって、「法」と「義」は対立するものではありませんでした。法を守ることは人々を守ることであり、人々を救うことは法の理念を実現することでもあったのです。

しかし、時代が進むにつれて、その均衡は少しずつ揺らいでいきます。剣術家・斎藤弥九郎は、道場「練兵館」を通じて後の志士たちを育て、侠客・大前田英(栄)五郎は、国家の法の外側で独自の仁義と秩序を守りました。思想家・高山彦九郎は、現実の体制よりも王道の理想を追い求めます。

そして幕末が近づくと、下斗米秀之進は主家の名誉のために法を犯し、平野国臣は尊王の理念のために命を賭し、大塩平八郎は窮民救済のために幕府へ反旗を翻しました。本シリーズが描くのは、「法」と「義」が同じ方向を向いていた時代から、次第にその距離を広げ、やがて衝突していく百五十年余りの歴史です。

法を守ることと、義を貫くことは、両立するのか

法とは、社会の秩序を維持するための仕組みです。義とは、人として守るべき道を貫こうとする内なる信念です。多くの場合、この二つは同じ方向を向いています。しかし、時として両者は正面から衝突することがあります。

大岡忠相と遠山景元は、法を運用する立場にありながら、情理によってその厳格さを和らげようとしました。斎藤弥九郎と大前田英五郎は、それぞれ剣の道、侠の道を通じて、法の外側に独自の秩序を築き上げます。高山彦九郎は、幕藩体制という現実の秩序よりも、王道という理想を優先しました。そして下斗米秀之進、平野国臣、大塩平八郎の三人は、それぞれ武士の面目、尊王の理念、民衆救済という譲れない「義」のために、あえて法を破る道を選びます。その代償はいずれも死という重いものでした。

本シリーズが伝えたいのは、法と義は本来対立するものとは限らないということです。むしろ社会が安定している時代には、両者は互いを支え合う関係にあります。しかし、その均衡が崩れたとき、人はどちらを選ぶのか。八人の生き方は、その普遍的な問いを私たちに投げかけています。

正義は、時代によって形を変える

八人の生涯を並べると、一つの興味深い事実が見えてきます。それは、同じ「義」という言葉であっても、その意味するところは時代や立場によって大きく異なるということです。

大岡忠相にとっての義は、法の枠内で庶民を救うことでした。大前田英(栄)五郎にとっての義は、国家の法の外側にありながらも、人と人との筋目や共同体の秩序を守ることでした。下斗米秀之進にとっての義は、主家の名誉を守ることでした。そして平野国臣や大塩平八郎にとっての義は、法を超えてでも守るべき理想や信念だったのです。なお、大岡忠相の名を広めた「大岡政談」の多くは後世の講談や創作によるものであり、史実とは一致しない部分が少なくありません。同様に、遠山景元についても、「遠山の金さん」として語られる数々の名裁きの大部分は、講談や時代劇によって形づくられたフィクションです。しかし二人に共通する実像は、派手な裁きの名手というよりも、都市行政や法制度の運営を担った優れた実務家であったことにあります。

本シリーズでは、法と義のあいだで揺れ動いた人々の選択を、史実と伝承を見分けながらたどっていきます。彼らは何を守ろうとし、何を捨てたのか。そして、その選択は私たちに何を問いかけているのか。八人の人生を通じて、ともに考えていきたいと思います。

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