足利義晴





Ashikaga Yoshiharu (1511-1550)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょん
こちらのページでは室町時代に活躍した政治家

足利義晴をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

足利義晴
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より室町時代に活躍した政治家として足利義晴イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

足利義晴って

館長

足利義晴 にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

新シリーズ「室町幕府とは何だったのか」の第7回目は、
室町幕府第十二代将軍の足利義晴が登場!

館長

今シリーズは、将軍という名のもとに灯った栄光と機能不全の9名の物語です

こんな背景

シリーズ:室町幕府とは何だったのか

第7回:足利義晴〜制度を背負わされた将軍〜

今回のシリーズ:「室町幕府とは何だったのか」は…
前回のシリーズ

南北朝の戦い ― その帰結 ― 」 では、
長引いた内戦の果てに、いったい何が残ったのかを描いてきました。

それは、
理想でもなく、
血筋が証明する正統でもありませんでした。

南北朝という終わることのなかった戦争の中で、
武力と妥協、管理と継承を重ねながら、
社会を崩壊させないために形づくられていった
「現実としての秩序」でした。

ここでいう「秩序」とは、
平和の到来でも、正しさの勝利でもありません。
戦争を終わらせることができない状況のなかで、
それでも社会を破綻させないために選び取られた

崩れ落ちる寸前で保たれていた政治の仕組み

を指しています。

その秩序を引き受けるかたちで現れたのが、
足利尊氏
そして子・足利義詮によって、
担われた室町幕府です。

それは、
革命によって生まれた政権ではありません。
理念の勝利として誕生した体制でもありません。

南北朝の分裂を抱えたまま、
それでも政治を止めることができなかった社会が、
引き受けざるを得なかった
帰結としての政権でした。

では、その室町幕府は、
いったい何だったのでしょうか。

強大な中央集権国家だったのか、
それとも、妥協の上に成り立つ暫定的な仕組みだったのか。

将軍とは、支配者だったのか、
それとも、壊れかけた制度を背負わされた存在だったのか。

このシリーズが問うのは、
「なぜ滅びたのか」ではありません。

そもそも、
室町幕府とは、
何を引き受けるために生まれた政治だったのか。

室町幕府は、一瞬、
完成を迎えます。

しかしその秩序は、
引き継がれず、
歪み、消耗し、
やがて、手放されていきます。

本シリーズでは、
その過程を
九人の将軍の姿を通して描いていきます。

室町幕府は決して、
「無為の政権」ではありませんでした。

それは、
戦争が完全には終わらない世界で、
それでも秩序を壊さず、
社会を持ちこたえさせるために、
限界まで引き延ばされた政治の記録でした。

このシリーズで描くのは、
英雄を称え上げる物語でも、
失敗を裁くための歴史でもありません。

描かれるのは、
南北朝の戦いが生み落とした現実と、
その現実と折り合いをつけながら、
秩序を維持しようと格闘し続けた、
一つの政治システムの生と死です。

室町幕府とは何だったのか
第1回 足利義満

秩序を完成させてしまった将軍

1
第2回 足利義持

完成した秩序を引き継げなかった将軍

2
第3回 足利義教

恐怖によって秩序を補おうとした将軍

3
第4回 足利義政

秩序から目を背けた将軍

4
第5回 足利義尚

象徴として消耗した若き将軍

5
第6回 足利義澄

将軍であることを許されなかった存在

6
第7回 足利義晴

制度を背負わされた将軍

7
第8回 足利義輝

武によって抗った最後の将軍

8
第9回 足利義昭

将軍制を手放した将軍

9

南北朝という内戦の「帰結」の、そのさらに先へ。
戦争のあとに生まれ、
戦争を引きずりながら続いた政権。

室町幕府とは、何だったのか。

その問いに、
ここから向き合っていきます。

追放の末に引き継がれた「彷徨える将軍職」

足利義晴が将軍として擁立されたとき、
その椅子はすでに、
政治の中心から外された場所にありました。

父・足利義澄は、
畿内の権力争いに敗れて都を追われ、
失意のうちに生涯を終えました。

将軍家が京都にどっしりと腰を据え、
天下の政を司るという前提は、
この時すでに完全に崩れ去っていたのです。

義晴が京都ではなく、
京を離れざるを得なかった近江国(現在の滋賀県)で、
産声を上げたという事実は、
将軍家から「安住の地・京都」が失われたことを象徴していました。

京都にいられない、定住なき主権者

義晴の治世は、
畿内では細川氏一門による泥沼の家督争いが続き、
京都は常に戦火と政争のただ中にありました。

将軍の居所はもはや、
聖域でも中枢でもありません。

情勢が悪化すれば京都を脱出して近江へ逃れ、
風向きが変われば再び都へ戻る。

義晴は、
生涯で幾度も京都と近江の間を、
往復させられることになります。

かつては「都に座すこと」が将軍の前提でしたが、
義晴は「都を追われ続けること」で将軍であり続けるという、
矛盾した宿命を背負わされたのです。

庇護され、消費される権威

義晴が将軍の座を保てたのは、
自らの軍事力や政治力によるものではありませんでした。

その身は常に、
その時々の有力勢力の庇護の下に置かれていました。

将軍はもはや、
秩序を創り出す主体ではなく、
他者の野心に「正統性」という色を塗るための、
「看板」として利用される存在でした。

京都の権力者のために、
あるいは近江の勢力の都合のために。

義晴は、他人のフィールドに広げられた、
最も都合のいい場所に置かれ続ける駒でした。

「存続」そのものが目的となった段階

ここで将軍という存在の意味は、
決定的な変質を遂げます。

八代・足利義政は、
美へ逃避しました。

九代・足利義尚は、
象徴として戦場で摩耗しました。

父であり十一代・足利義澄は、
主体性を奪われました。

そして十二代・義晴の代に至り、
将軍は「制度そのもの」を背負い、
ただ生き永らえさせるための存在となります。

ここで強調すべきなのは、
義晴が何を成し遂げたかではありません。

求められていたのはただ一つ。
「室町幕府という仕組みが、まだ終わっていない」と、
世に信じさせ続けることでした。

そのために義晴は、
定まった居場所を持つことも許されず、
京都と近江を彷徨い、
庇護者を替えながら、
実体を失った権威を演じ続けます。

義晴は、政治を動かす将軍ではなく、
制度が生きているように見せるために置かれ続けた、
その「証(あかし)」そのものだったのです。

制度を背負わされた将軍の終焉

足利義晴の生涯は、
将軍制が「政治を導く仕組み」から、
「制度の維持そのものを目的とする制度」へと、
転落した姿を色濃く映し出しています。

何かを成すことは許されず、
しかし「将軍でいること」だけは強要される。

制度の重みに押し潰されながら、
義晴は近江の坂本で、
ついに一度も政治の主導権を握ることなく40年あまりの人生を閉じました。

制度を背負わされた将軍。

それは、幕府という名の巨大な残骸を、
「続いている」という理由だけで、
最期まで引きずり続けた姿でした。

明日は、足利義輝

制度を背負い続けるだけでは、
もはや何も変わらない。

そう悟ったとき、
次の将軍は、
再び「武」という手段に立ち返ります。

それは、
室町将軍制が最後に見せた、
最も鮮烈で、最も悲しい抵抗でした。

明日は、
「武によって抗った最後の将軍」足利義輝の物語です。

1536-1565を生きた室町幕府第十三代将軍。父・足利義晴の代に、将軍権威が有力大名の争いを正当化するための「権威の看板」として消費されていく現実の中で育つ。義輝は「権威の看板」だけの将軍制に抗い、自ら剣豪・塚原卜伝に師事するなど、武をもって将軍の実体を取り戻そうとした。京都に復帰しては追放される不安定な政局の中でも、諸大名と交渉を重ね、将軍として政治と軍事の主導権回復を試みる。しかしその姿勢は、畿内で実権を握った三好氏・松永久秀らと鋭く対立し、1565年、二条御所において家臣の手によって殺害された。将軍がその居城で家臣に討たれるという最期は、武によって抗いながらも、将軍制がもはや存立しえなかった段階に至っていたことを象徴している。
【政治の部屋|足利義輝】室町時代編.10

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

23愛知県
1539-1600を生きた武将。父・忠吉とともに幼少期から人質時代の徳川家康に仕えた。三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで武功を重ね、家康から絶大な信頼を寄せられる徳川家屈指の重臣となる。1600年、家康が上杉景勝討伐のため会津へ向かうと、伏見城の守備を託された。石田三成ら西軍の大軍に包囲される中、わずかな兵で十日余りにわたり奮戦し、壮絶な討ち死にを遂げる。この必死の時間稼ぎは家康の東軍結集を助け、関ヶ原の勝利と徳川政権成立への重要な礎となった。生きて帰ることを望まず、自らを捨て石として主君への忠義を貫いたその最期は、まさに「忠義の死で天下を動かす」烈士であった。
【政治の部屋|鳥居元忠】忠義の死で天下を動かすNew!!
23愛知県
1568-1595を生きた武将。豊臣秀吉の姉・日秀の長男として生まれた。秀吉の養子となり、小牧・長久手の戦いや小田原合戦、奥州仕置などで功績を挙げる。秀吉の嫡男・鶴松の死後、豊臣家の後継者として関白職と家督を譲られ、政務を担った。しかし秀吉の実子・秀頼の誕生後、その立場は急速に不安定化する。1595年には殺生関白との風聞や豊臣家への謀反を企てたとの疑いを受け、高野山へ追放された後に切腹を命じられた。さらに妻子や側近までもが処刑されるという苛烈な結末を迎える。後継問題と権力の論理に翻弄されたその生涯は、まさに「豊臣後継者の悲劇」を象徴するものであった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|豊臣秀次】豊臣後継者の悲劇New!!
23愛知県
1536-1584を生きた武将。尾張国出身と伝えられ、母が織田信長の乳母を務めたことから、信長とは乳兄弟として育った。桶狭間の戦いや姉川の戦い、長島一向一揆の鎮圧などで武功を重ね、織田家の有力重臣として活躍する。本能寺の変後は羽柴秀吉に味方して山崎の戦いで明智光秀討伐に貢献し、清洲会議を経て美濃大垣城主となった。1584年、小牧・長久手の戦いでは秀吉方の主力として三河への中入作戦を進言し自ら出陣するが、長久手で織田信雄・徳川家康連合軍の急襲を受けて討ち死にした。信長との絆を受け継ぎ、秀吉への忠義を貫いた末に戦場へ散ったその生涯は、まさに「友情と忠義に殉ずる」武将であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|池田恒興】友情と忠義に殉ずるNew!!
23愛知県
1522?-1583を生きた武将。尾張国に生まれ、若くして織田信長に仕え、武勇と統率力で織田家随一の重臣へと成長した。「鬼柴田」の異名で恐れられ、越前北ノ庄を拠点に北陸方面軍を率いて上杉氏と激戦を繰り広げ、信長の天下統一事業を軍事面から支え続けた。しかし1582年、本能寺の変で信長が横死すると状況は一変する。清須会議において後継体制を巡り羽柴秀吉と対立し、政治的駆け引きの末に主導権を奪われてしまう。翌1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れた勝家は、正室・お市とともに北ノ庄城で自刃した。織田家随一の猛将として時代を切り拓きながら、主君の死後の権力闘争に飲み込まれていったその姿は、まさに「清須会議に翻弄される」と呼ぶにふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県、出生年を1522年とさせていただきます。
【政治の部屋|柴田勝家】旧世代の誇りに散るNew!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ