武将。織田信長に仕え、鉄砲や忍びの術に通じた知略家として頭角を現す。伊勢長島攻めや武田攻めで武功を重ね、その手腕を高く評価された信長から関東方面の統治を託され、上野厩橋城を拠点に関東管領代として北条氏や上野の国衆との折衝にあたることとなった。しかし1582年、本能寺の変で信長が横死すると状況は一変する。動揺した北条氏直の大軍を相手に神流川の戦いで大敗を喫し、関東の地盤を失って命からがら本拠の伊勢へと敗走した。さらに後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方に与して羽柴秀吉と対立し、敗北後は所領を失って表舞台から退いていく。信長の抜擢によって一時は関東の要を担いながら、時代の激変によってその地位を奪われたその生涯は、まさに「関東移封に翻弄される」と呼ぶにふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を滋賀県とさせていただきます。
安土桃山時代編.58
シリーズ:体制に翻弄された者たち 第1回
滝川一益
Takigawa Kazumasu
関東移封に翻弄される
Information
教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

今回のシリーズ「体制に翻弄された者たち」って!?
体制に翻弄された者たち
体制固めが生んだ敗者たち
織田 、豊臣、そして徳川。
戦国の乱世は、数え切れない戦いと犠牲の果てに、やがて新たな統治体制へと収束していきました。しかし、体制の完成とは、 勝者だけが輝く物語ではありません。新しい秩序が生まれるとき、そこには必ず取り残される者がいます。移封された者。権力闘争に敗れた者。忠義を尽くしながら命を落とした者。そして、新体制の成立によって役割そのものを失った者。戦国を駆け抜けた名将も、豊臣の後継者も、徳川将軍家の血を引く大名も、さらには朝廷という日本最古の権威さえ、時代の奔流から逃れることはできませんでした。
本シリーズが描くのは、新たな体制が形作られる過程で、運命を大きく狂わされた人々の物語です。
勝者の論理の裏にある真実
歴史はしばしば勝者によって語られます。天下を統一した者。新しい制度を築いた者。時代を動かした英雄たち。
しかし、その陰には必ず、敗れ去った者たちの存在があります。功績があっても報われない。忠義を尽くしても失われる。血筋や身分でさえ未来を保証しない。彼らの人生には、時代が求める変化の厳しさが刻まれています。だからこそ、翻弄された人々を知ることは、歴史の敗北者を学ぶことではありません。その時代が本当に何を求め、何を切り捨てたのかを知ることなのです。
体制とは、人々に安定と秩序をもたらす仕組みである一方で、変化に適応できない者を押し流す力でもあります。そこで本シリーズでは、その光と影の両面を見つめながら、歴史のもう一つの真実に迫ります。
歴史を振り返ると、体制が変わる時代には共通した特徴があります。それまで正しかった価値観が覆され、昨日までの功労者が不要となり、新しい秩序に適応できる者だけが生き残る。そこには、「誰を支えるか」だけではなく、「誰が取り残されるのか」という現実が存在します。戦国の刃が収まり、やがて二百六十年余に及ぶ泰平の世が訪れます。
しかし、その平和は突然訪れたものではありませんでした。忠義。血筋。名誉。武功。かつて栄光をもたらしたものが、時には没落の理由へと変わる。その皮肉こそが、体制転換期の最も恐ろしい本質なのかもしれません。
だからこそ彼らの物語は、単なる歴史上の敗者の物語ではありません。激変する社会の中で、人はいかに生きるべきか、変化の波にどう向き合うべきか。現代にも通じる問いを、私たちに投げかけているのです。八人の人生を通して、「勝者の歴史」だけでは見えてこない、もう一つの戦国・江戸史。
一緒に旅をしていきましょう。

「関東移封に翻弄される」滝川一益の物語
どのような時代を生きたのか
滝川一益が生きた十六世紀は、織田信長↗ による天下統一事業が急速に進み、そして本能寺の変によって、その体制が一瞬にして崩れ去る、激動そのものの時代でした。一益は近江国甲賀の出身とされ、若くして信長に仕え、鉄砲の扱いに長けた武将として頭角を現します。伊勢方面の攻略で功を挙げ、北伊勢の支配を任されると、やがて信長政権の中でも屈指の実力者へと成長しました。
そして1582年、武田氏を滅ぼした信長は、一益にある重要な役目を与えます。上野国と信濃の一部を治め、関東の諸勢力を取りまとめる、関東管領格ともいえる大役でした。一益の武将人生は、まさにこの絶頂の瞬間から、急転直下の運命に見舞われていくことになるのです。
この人物が「翻弄された」ものとは
一益が翻弄されたもの、それは、「本能寺の変によって一夜にして消えた織田体制と、それに乗じて牙を剥いた北条氏の軍事的圧力」でした。
一益は関東支配を託されたとはいえ、その基盤はまだ築かれたばかりでした。上野に入ってからわずかな期間しか経っておらず、現地の国衆たちも、心から一益に従っていたわけではありません。そこへ1582年6月、本能寺の変の報せが届きます。主君・信長が明智光秀↗ に討たれたことで、一益を関東に押し立てていた、織田政権という後ろ盾そのものが消え去りました。好機と見た北条氏政・氏直父子は、ただちに大軍を動かします。
一益は自らの実力とは無関係に、主君の死という一報だけで、足場そのものを奪われてしまったのです。まさに、時代の激変に翻弄された武将の姿が、ここにありました。
この人物が示した「選択」とは
一益が示した選択とは、「劣勢の中でも撤退の決断を早め、家臣と兵をできる限り失わずに西へ導くこと」でした。
1582年6月、一益は北条方との「神流川の戦い」に臨みます。兵力で大きく劣る中、一益は奮戦しましたが敗北を喫し、関東における織田方の拠点は瓦解しました。しかし一益はここで、無理な籠城や玉砕を選びませんでした。わずかな供回りとともに、信濃方面を経て、本拠地であった伊勢長島へと撤退します。道中は決して安全なものではなく、かつて従っていた国衆の中には、離反する者も少なくなかったと伝えられています。それでも一益は、無用な犠牲を避けながら、なんとか本領へと帰り着きました。
華々しい勝利ではなく、「生き延びて再起の道を残す」という選択。それこそが、追い詰められた一益が示した、苦渋の選択だったのです。
※なお、この撤退行の詳細な逸話には、後世の脚色が含まれている可能性も指摘されており、史実として確定していない部分を含みます。
その生涯は何を語ったのか
関東を追われた一益は、伊勢への撤退に時間を要したことで、織田家の後継を決める清洲会議への出席が叶いませんでした。
これにより織田家中での発言力を大きく失い、かつて信長政権の中枢にいた一益は、急速に主導権から遠ざけられていきます。さらに1583年の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家↗方に与して羽柴秀吉と戦いますが、再び敗北を喫します。敗戦後、一益は剃髪して秀吉に降り、武将としての表舞台からは、静かに姿を消していきました。1586年、一益はその生涯を閉じます。一益の生涯が語るもの、それは華やかな勝利の記録ではありません。絶頂から転落へ、そして再起もかなわぬまま終わった、一人の武将の姿そのものです。
体制の激変は、どれほどの実力者であっても、一瞬にしてその立場を奪い去ることがある。滝川一益の生涯は、そのことを私たちに静かに語りかけています。
まさに「関東移封に翻弄される」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、柴田勝家
滝川一益が翻弄された出来事は、後ろ盾を失ったことによる、急激な立場の転落でした。
しかし信長という後ろ盾を失ったのは、一益だけではありません。織田家筆頭家老として、誰よりも信長に忠義を尽くしながらも、新時代の主導権を羽柴秀吉に奪われ、やがて滅びの道を辿った武将がいます。
明日登場するのは、「鬼柴田」と恐れられた猛将、柴田勝家。
第2回は、「旧世代の誇りに散る」柴田勝家の物語に迫ります。
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