武将。長宗我部元親の四男として生まれ、土佐国の名門・長宗我部氏の家督を継いだ。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍に属するが、本戦では戦機を得られないまま敗北を迎え、戦後に所領を没収されて浪人となる。その後は京都で寺子屋を開いて生計を立てながらも、土佐再興への望みを捨てなかった。1614年、大坂の陣が始まると豊臣秀頼に招かれて大坂城へ入り、旧臣らを率いて八尾の戦いなどで奮戦し徳川軍を苦しめる。しかし翌年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると捕らえられ、六条河原で斬首された。滅びた家の再興を最後まで追い求め続けたその生涯は、まさに「失われた土佐を追う」悲運の名将であった。
江戸時代編.12
シリーズ:体制に翻弄された者たち 第6回
長宗我部盛親
Chosokabe Morichika
失われた土佐を追う
Information
教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

「失われた土佐を追う」長宗我部盛親の物語
どのような時代を生きたのか
長宗我部盛親が生きた十六世紀後半から十七世紀初頭は、豊臣秀吉↗ による天下統一が達成され、やがてその政権が崩れ、徳川家康↗による新たな支配体制が確立されていく、大きな転換の時代でした。盛親は土佐国の戦国大名、長宗我部元親↗ の四男として生まれます。父・元親は一時、四国の大半を制圧するほどの勢力を築きましたが、豊臣秀吉↗の四国征伐によって降伏し、以後は土佐一国の大名として、豊臣政権のもとに組み込まれていました。
盛親は当初、家督を継ぐ立場ではありませんでしたが、兄たちの死や父の意向によって、長宗我部家の後継者として定められます。1599年に父・元親が没すると、盛親は土佐国主として、長宗我部家を率いる立場に立ちました。しかしその翌年、天下の情勢は再び大きく動き出し、盛親の人生を大きく揺るがすことになるのです。
この人物が「翻弄された」ものとは
盛親が翻弄されたもの、それは、「関ヶ原の戦いにおける西軍への与力と、それによって決定づけられた長宗我部家改易という結末」でした。
1600年、徳川家康↗と石田三成↗ らの対立が、関ヶ原の戦いへと発展すると、盛親は西軍方として参陣します。しかし盛親が率いる長宗我部軍は、本戦において積極的な戦闘に加わることなく、西軍の敗北とともに撤退しました。盛親はその後、家康方への謝罪と改易処分の回避を求めて、井伊直政↗らを通じて工作を試みたと伝えられています。
しかしこの交渉は不首尾に終わり、1601年、長宗我部家は改易処分を受けます。この改易の背景には、盛親が家督相続の過程で、異母兄・津野親忠の死に関わる家中問題によって、家康方の不信を招いた一因になったとも指摘されており、詳細な経緯については、史料によって解釈が分かれています。
父が一代で築き上げた土佐一国という所領を、戦での明確な失態というよりも、戦後の政治的な立場の悪さによって失う。盛親が翻弄されたのは、関ヶ原という戦そのものだけでなく、戦後の処理という、もう一つの戦場だったのです。
この人物が示した「選択」とは
盛親が示した選択とは、「大名としての地位を失った後もなお、再起の機会を求め続けること」でした。
改易により盛親は、一夜にして大名から浪人の身分へと落とされました。その後、盛親は京都に潜み、寺子屋を開いたとも伝えられ、生計を立てていたと伝えられています。しかしこの間も、盛親は再起の志を捨てていませんでした。
1614年、徳川家と豊臣家の対立が深まり、大坂冬の陣が始まると、盛親は大坂城に入り、豊臣方として参戦します。土佐国主への復帰という望みを抱きながら、盛親は真田信繁(幸村)↗らとともに、大坂方の主力として奮戦しました。翌1615年の大坂夏の陣でも盛親は戦い続けましたが、豊臣方は敗北し、盛親は落ち延びる途中で捕らえられます。
浪人としての不安定な暮らしの中でも、武家としての再起を諦めなかった。それこそが、盛親が最後まで貫いた選択だったのです。
その生涯は何を語ったのか
1615年、長宗我部盛親は京都・六条河原において斬首され、四十歳でその生涯を閉じました。
大坂の陣における敗北は、盛親個人の再起の夢だけでなく、長宗我部家という戦国大名家そのものの、完全な終焉を意味していました。父・元親が四国の覇者として築いた長宗我部家は、盛親の代において、その戦国大名としての歴史は、ここに幕を閉じることになったのです。盛親の生涯が語るもの、それは一度失った地位を取り戻すことの困難さと、それでも諦めずに再起を求め続けた一人の武士の姿です。改易という結末は、戦場での勝敗以上に、戦後の政治という見えにくい戦いの中で決まっていく。
長宗我部盛親の生涯は、そのことを私たちに静かに語りかけています。
まさに「失われた土佐を追う」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、松平忠直
長宗我部盛親が翻弄されたのは、関ヶ原後の政治的な立場によって、一代で失われた土佐国という所領でした。
しかし新たに確立された徳川体制の内部でも、将軍家の血を引きながらも、自らの立場に苦しみ、やがて処分される人物が現れます。家康の孫として生まれ、大坂の陣で武功を挙げながらも、その後の言動によって、改易の道を歩むことになった武将がいます。
明日登場するのは、松平忠直。
第7回は、「将軍家の異端児となる」松平忠直の物語に迫ります。
長宗我部盛親にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「体制に翻弄された者たち」って!?
体制に翻弄された者たち
体制固めが生んだ敗者たち
織田 、豊臣、そして徳川。
戦国の乱世は、数え切れない戦いと犠牲の果てに、やがて新たな統治体制へと収束していきました。しかし、体制の完成とは、 勝者だけが輝く物語ではありません。新しい秩序が生まれるとき、そこには必ず取り残される者がいます。移封された者。権力闘争に敗れた者。忠義を尽くしながら命を落とした者。そして、新体制の成立によって役割そのものを失った者。戦国を駆け抜けた名将も、豊臣の後継者も、徳川将軍家の血を引く大名も、さらには朝廷という日本最古の権威さえ、時代の奔流から逃れることはできませんでした。
本シリーズが描くのは、新たな体制が形作られる過程で、運命を大きく狂わされた人々の物語です。
勝者の論理の裏にある真実
歴史はしばしば勝者によって語られます。天下を統一した者。新しい制度を築いた者。時代を動かした英雄たち。
しかし、その陰には必ず、敗れ去った者たちの存在があります。功績があっても報われない。忠義を尽くしても失われる。血筋や身分でさえ未来を保証しない。彼らの人生には、時代が求める変化の厳しさが刻まれています。だからこそ、翻弄された人々を知ることは、歴史の敗北者を学ぶことではありません。その時代が本当に何を求め、何を切り捨てたのかを知ることなのです。
体制とは、人々に安定と秩序をもたらす仕組みである一方で、変化に適応できない者を押し流す力でもあります。そこで本シリーズでは、その光と影の両面を見つめながら、歴史のもう一つの真実に迫ります。
歴史を振り返ると、体制が変わる時代には共通した特徴があります。それまで正しかった価値観が覆され、昨日までの功労者が不要となり、新しい秩序に適応できる者だけが生き残る。そこには、「誰を支えるか」だけではなく、「誰が取り残されるのか」という現実が存在します。戦国の刃が収まり、やがて二百六十年余に及ぶ泰平の世が訪れます。
しかし、その平和は突然訪れたものではありませんでした。忠義。血筋。名誉。武功。かつて栄光をもたらしたものが、時には没落の理由へと変わる。その皮肉こそが、体制転換期の最も恐ろしい本質なのかもしれません。
だからこそ彼らの物語は、単なる歴史上の敗者の物語ではありません。激変する社会の中で、人はいかに生きるべきか、変化の波にどう向き合うべきか。現代にも通じる問いを、私たちに投げかけているのです。八人の人生を通して、「勝者の歴史」だけでは見えてこない、もう一つの戦国・江戸史。
一緒に旅をしていきましょう。
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