源 実朝





Minamoto no Sanetomo (1192-1219)

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こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

源 実朝をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

源 実朝
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として源 実朝イラストポートレートをお届けします

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源 実朝って

館長

源 実朝にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

「和歌」をこよなく愛した将軍、その心はひっそりと佇んでいたのだろうな

館長

父・頼朝が一代で築いた鎌倉という革命は、世継ぎの難しさの歴史とも読み解けそうです

こんな背景

シリーズ:鎌倉という革命

第8回:源 実朝 〜文化の都・鎌倉を夢見た三代目将軍〜

今回のシリーズ:「鎌倉という革命」は…

〜武士が初めて「国」をつくった瞬間〜

壇ノ浦の海で平家が滅び、やがて後鳥羽院が隠岐へと流され、朝廷の反撃が静かに幕を閉じたとき、都の人々はようやく悟ることになります。

「もはや、国の行方は京(みやこ)では決まらない。」

承久の乱の敗北は、武士が国を治めるという新しい秩序が、もはや逆戻りできない現実となった瞬間でした。
しかし、この「革命」の始まりはもっと早く、平家滅亡の直後、ある一人の武将の手によってすでに動き出していました。

その男こそ、のちに「武士の都・鎌倉」を築きあげ、日本史に「革命」を起こした源頼朝です。
頼朝が掲げた「武士による国づくり」は、これまで天皇でも貴族でも平家でも成しえなかった政治のかたち。

「武士の国」という、まったく新しい国家構造

でした。

そして、この革命は、頼朝ひとりの力ではありません。
そのそばには、時に支え、時にぶつかり、時に命を懸けて駆け抜けた武士たちがいました。

このシリーズでは、そんな「鎌倉という革命」をともに形づくった10人のストーリーを追っていきます。

「鎌倉という革命」をつくった9人のストーリー

第1回 源 頼朝
敗者の子から「武士の都・鎌倉」を創り上げた男

第2回 安達盛長
頼朝を陰で支えた鎌倉創業の功労者

第3回 熊谷直実
戦と自責の念を抱え仏門へ向かった武士の魂

第4回 北条政子
夫と鎌倉を支え抜いた不屈の「尼将軍」

第5回 梶原景時
才覚と疑惑の狭間で揺れた悲運の参謀

第6回 佐々木高綱
宇治川先陣を駆けた武名の象徴

第7回 曾我祐成
義と情を貫いた「曾我の仇討ち」の若き武士

第8回 源 実朝
孤独と文化に生きた歌人将軍の光と影

第9回 和田義盛
武士の誇りを貫き散った豪胆の武将

第10回 源 義仲
もう一つの源氏の夢

源 頼朝 が築いた「武士の都・鎌倉」。
兄・頼家の失脚後、わずか12歳で将軍の座についたのが、頼朝の末子にして三代将軍、源 実朝(1192–1219)でした。

しかし、実朝が歩んだ道は、父や武士たちが駆け抜けた戦と覇権の道とは、まったく違う方向を向いていました。

それは、

武士の頂点で、「和歌」をこよなく愛した孤独な文化人の道

その選択こそが、実朝の人生を輝かせ、同時に破滅へと導くことになります。

旗印として選ばれた「子ども将軍」

実朝が将軍となったとき、鎌倉幕府は内部での権力争いの真っ最中でした。北条氏は、自分たちにとって「扱いやすい人物」として実朝を選びます。

つまり実朝は、

武士の頂点に立ちながら、武士の論理に馴染むことを求められた少年

だったのです。

政治の実権は北条義時が握り、実朝は名目上の将軍、いわば「旗印」として扱われました。

母・政子の愛と葛藤

母・北条政子 にとって、実朝は亡き頼朝との間に残された「最後のかけがえのない息子」でした。
政子は実朝を深く愛し、権力争いの渦から彼を必死に守ろうとします。
しかし、政子が守ろうとした「鎌倉幕府」という巨大な器は、実朝の繊細な心を削り取っていく場所でもありました。

政子は実朝が和歌に耽ることを、一人の母として優しく見守る半面、幕府の指導者としては、実朝が立派な「武家の棟梁」として振る舞うことを願わずにはいられませんでした。
この「母としての愛」と「政治家としての責任」の狭間で、政子もまた苦しんでいたのです。

武士の都に咲いた「文化の灯」

実朝が傾倒していったのは和歌・書・芸術といった雅の世界でした。
父・頼朝が武で鎌倉を統治したのに対し、実朝は「文化の力」で鎌倉を磨こうとしたのです。

実朝の和歌は繊細で優美、一方でその奥には深い孤独が宿っています。

大海の 磯もとどろに よする浪
われて砕けて 裂けて散るかも
(大海の磯がどよめくほど激しく波が押し寄せる。その波が砕け、裂け、散っていく。まるでわたしの心が張り裂けていくような。)

激しく砕け散る波に、将軍としての重圧、孤独、居場所のなさを重ねるような一首。
そこに居ることそのものが苦しみだった。
その実朝の痛みが、静かに滲み出ています。

深まる孤独と「和」への憧れ

実朝は京都の朝廷文化を積極的に取り入れ、殺伐とした鎌倉に礼儀と格式をもたらそうとしました。
後鳥羽院 を和歌の師と仰ぎ、京都への強い憧れを抱いた実朝は、「文化の都・鎌倉」を夢見ていたのかもしれません。

しかし、この気質は武士たちの理解を得るものではありませんでした。
武士たちが求めたのは、戦の知略に優れ、力でねじ伏せる「真の将軍」。
実朝の静かな姿勢は、武士政権の内部では「異質」として孤立を深めていくことになります。

雪の鶴岡八幡宮

ときは1219年。
雪の降る鶴岡八幡宮。

その日は、実朝の右大臣昇進を祝う華やかな儀式の日でした。
しかし、その華やかさの裏側には、源氏一族が歩んできた血塗られた歴史が影を落としていました。
それは、実朝が二代将軍・頼家のあとを継いだ背景にあります。
北条氏と頼家の激しい対立、そして兄・頼家の非業の死という、目を背けたくなるような身内の争いがありました。

儀式を終え、しんしんと雪が降り積もる石段をゆっくりと降りていた実朝の前に、一人の若者が飛び出します
それは、亡き兄・頼家の息子であり、実朝の甥にあたる公暁でした。

父の仇は、こうして討つ!

公暁は、父・頼家が命を落としたのは、叔父である実朝が将軍の座に就いたせいだと信じ込まされていたのです。
実朝は抵抗する間もなく斬り伏せられ、その命はあまりに呆気なく消えました。

享年28。
若くしてその生涯を閉じた実朝とともに、頼朝から始まった鎌倉源氏の血筋は、ここで完全に断絶しました。

愛する息子を、それも目の前で失った政子の悲しみは計り知れません
しかし、政子には泣いている暇さえなかったはずです。
実朝の死によって主を失った鎌倉を、再び一丸となって守り抜く
それが、息子・実朝の命を飲み込んだ「鎌倉」という運命に対する、政子の最後の戦いとなるのでした。

次回は、頼朝とともに幕府を築きながらも後に北条氏と対立、「武士の誇りを貫き散った豪胆の武将」和田義盛のストーリーをお届けします。

1147-1213を生きた武士。源頼朝の挙兵から鎌倉幕府成立まで、軍事面の中心として頼朝を支え、とりわけ勇猛さと誠実さで頼朝・政子から深く信頼された。幕府創設後は御家人たちを統率する「侍所」の初代別当に就任し、鎌倉武士団の中核を担う存在となる。しかし頼朝の死後、幕府内部では北条氏が急速に権力を集中させ、豪胆で一本気な義盛は次第に対立の渦に巻き込まれていく。1213年、北条義時の策略により挙兵を余儀なくされるが、激しい戦いの末に一族とともに討ち死にした。義盛の最期は、頼朝とともに幕府を築き上げた「御家人の時代」の終焉を象徴し、豪勇と忠義を最後まで貫いた姿は、まさに鎌倉武士の理想とされた。いらすとすてーしょんでは、出生地を神奈川県とさせていただきます。
【政治の部屋|和田義盛】武士の誇りを貫き散った豪胆の武将

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政治の部屋
1846-1866を生きた徳川十四代将軍。紀州藩主・徳川斉順の子として、父の死から16日後に江戸の紀州藩邸で生まれ、満2歳で紀州藩主を継いだ。1858年、将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派の支持を受け、満12歳で第14代将軍に就任する。1862年には孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎え、朝廷と幕府の融和を図る公武合体を象徴する存在となった。翌年には家光以来およそ230年ぶりとなる上洛を果たし、朝廷からの強い攘夷要求を受けて幕府として攘夷実行を約束する。続く上洛では将軍として初めて海路を用いるなど、朝廷との関係維持に奔走した。勝海舟の進言を容れて神戸海軍操練所の設置を認めるなど、新しい時代への理解も示している。1866年、第二次長州征伐のため滞在していた大坂城で病に倒れ、満20歳で死去した。和宮との仲は睦まじく、側室を置かなかったと伝えられる。家茂の死を知った勝海舟は日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記した。若くして朝廷と幕府の狭間に立ち続け、その調停に心身を削ったその生涯は、まさに「公武合体に若き命を賭す」将軍であった。
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政治の部屋
1824-1858を生きた徳川十三代将軍。文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城西の丸に生まれる。多くの兄弟が幼くして亡くなるなかで唯一成人し、将軍後継者となった。幼少から病弱であったため、その器量や健康状態を不安視する声もあったが、老中・阿部正弘らの支持を受けて世子の地位を固めた。1853年、黒船来航の混乱のさなかに家慶が死去すると、同年中に第13代将軍に就任する。翌年には日米和親条約が締結されたが、家定自身は病状が重く、幕政は阿部正弘、ついで堀田正睦らが主導した。御台所に天璋院(篤姫)を迎えるも実子には恵まれず、将軍継嗣をめぐって井伊直弼ら南紀派の推す徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が激しく対立する。1858年、家定は諸大名を前に慶福を後継者とする意向を示し、続いて一橋派の処分を発表した。これは病弱で政治的発言の少なかった家定が、自ら後継問題について明確な意思を示した数少ない場面であった。その翌日、34歳で死去する。病弱の身で黒船来航後の国難と将軍継嗣問題の渦中に置かれたその生涯は、まさに「病弱の将軍として継嗣問題に揺れる」将軍であった。
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政治の部屋
1793-1853を生きた徳川十二代将軍。寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる。兄の早世により将軍後継者となり、1837年、44歳で第12代将軍に就任したが、実権はなお大御所・家斉が握り続けていた。家斉の死後、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を進めるものの、諸方面の反発を受けて挫折。その後は阿部正弘を重用し、海防強化や政務改革に取り組んだ。家臣の進言に「そうせい」と応じることが多かったことから「そうせい様」と渾名された一方、人材登用では優れた眼識を発揮した。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、家慶はすでに病床にあり、阿部正弘の報告に「斉昭と相談せよ」と述べるにとどまった。それから間もない同年、家慶は60歳で死去し、子の家定が跡を継いだ。徳川の泰平が終わりを迎え、幕末への扉が開かれる歴史の転換点に立ち会ったその生涯は、まさに「黒船来航に立ち会う将軍」であった。
【政治の部屋|徳川家慶】黒船来航に立ち会う将軍New!!
13東京都
1773-1841を生きた徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家斉】50年の治世で幕府を緩ませるNew!!

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