真田信繁(幸村) イラストポートレート

江戸時代編.17

シリーズ:体制と距離を取り生きた者たち 第5回

真田信繁(幸村)

Sanada Nobushige (Yukimura)

体制に背いて戦う

1567?-1615 | 出生地:長野県 | 政治の部屋

シューちゃん Information

教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

シューちゃん

各時代の政治家たちをお届けしています

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

シューちゃん

「体制に背いて戦う」真田信繁(幸村)の物語

どのような時代を生きたのか

真田信繁が生きた十六世紀後半から十七世紀初頭は、豊臣秀吉↗ による天下統一を経て、徳川家康↗による新たな体制が、確立されていく大きな転換期でした。信繁は、その後信濃国上田を治めることになる、真田昌幸↗ の次男として生まれます。真田家は、武田氏、織田氏、上杉氏、そして徳川氏や豊臣氏といった、周辺の大勢力の間を巧みに渡り歩きながら、小勢力ながら独自の存在感を保ち続けてきた一族でした。

信繁は若い頃、人質として上杉家や豊臣家に送られた時期もあり、豊臣政権下では大坂で秀吉に近侍し、豊臣家との縁を深めていきます。1600年の関ヶ原の戦いに際しては、父・昌幸と信繁は西軍方に、兄・信之は東軍方に、それぞれ分かれて所属するという、真田家独自の判断が下されました。これは家の存続を図るための、苦渋の分割策であったとも伝えられていますが、その真意については史料上、様々な解釈が存在しています。

関ヶ原の戦いの前哨戦において、信繁は父・昌幸とともに、徳川秀忠↗率いる軍を上田城で足止めし、本戦への到着を遅らせるという戦功を挙げました。しかし西軍が敗北すると、信繁と父・昌幸は死罪を免れたものの、紀伊国九度山への配流を命じられ、長い雌伏の時を過ごすことになるのです。

この人物が「距離を置いた」ものとは

信繁が距離を置いたもの、それは、「徳川家康↗によって確立されようとしていた、新たな天下の秩序そのもの」でした。

九度山での配流生活は、十年以上にも及びました。その間に父・昌幸は世を去り、信繁自身も、再び表舞台に立つ機会があるかどうか、定かではない歳月を過ごします。

しかし1614年、徳川家と豊臣家の対立が深まり、大坂冬の陣が始まると、信繁は九度山を脱出し、大坂城に入城しました。すでに徳川による天下統一は、ほぼ確立されたと見られていた時期であり、豊臣方につくことは、大きな勝算のある選択とは言い難いものでした。それでも信繁は、徳川方に与して安泰を図る道ではなく、豊臣方として最後まで戦う道を選びます。

信繁が距離を置いたのは、すでに定まりつつあった徳川の天下という、新しい現実そのものだったのです。

この人物が示した「生き方」とは

信繁が示した生き方とは、「圧倒的に不利な状況の中でも、自らの武略のすべてを尽くして戦い抜くこと」でした。

大坂冬の陣において、信繁は大坂城の弱点とされた南側に、「真田丸」と呼ばれる出城を築き、徳川方の大軍を相手に、大きな戦果を挙げます。この真田丸での奮戦により、信繁の名は天下に知れ渡ることになりました。冬の陣は和睦によって一旦収束しますが、その後、大坂城の堀が埋められるなど、豊臣方は軍事的に著しく不利な状況に追い込まれます。それでも1615年の大坂夏の陣において、信繁は再び徳川方と戦い、家康の本陣に迫る猛攻を仕掛けたと伝えられています。
この本陣突撃の詳細については、後世の軍記物によって大きく脚色された部分もあり、どこまでが史実であるかについては、研究者の間でも議論が続いています。

最終的に信繁は、安居神社の境内において討ち取られ、その生涯を閉じました。勝算の薄い戦いと知りながら、最後まで武将としての矜持を貫き、持てる武略のすべてを尽くす。それこそが、信繁が示した、体制に背いてなお貫かれた生き方だったのです。

その生涯は何を語ったのか

1615年、真田信繁は四十八歳でその生涯を閉じました。

信繁の奮戦は、敵方であった徳川方の記録にも、「日本一の兵(つわもの)」として、高く評価される言葉が残されたと伝えられています。
なお、この評価の出典や成立の経緯についても、江戸時代の編纂物に基づくものであり、同時代の一次史料による裏付けには限りがあることに留意が必要です。

信繁の死をもって、大坂夏の陣はまもなく終結し、豊臣家もまた滅亡へと向かいました。信繁の生涯が語るもの、それは勝敗がほぼ見えている戦いにおいても、自らの信じる立場を貫き通す生き方が、確かに存在したという事実です。新たな体制への恭順ではなく、滅びゆく側にあえて身を投じ、最後まで戦い抜く。

真田信繁の生涯は、そのことを私たちに静かに語りかけています。

まさに「体制に背いて戦う」という、副題にふさわしい人生でした。

Coming Next

明日は、真田幸昌(大助)

真田信繁が貫いたのは、徳川による新たな秩序に背を向け、豊臣方として戦い抜く生き方でした。

しかしその戦場には、信繁とともに運命を歩んだ、もう一人の真田がいました。父の傍らで戦いに加わりながらも、自らは戦場を離れず、父と最後を共にすることを選んだ、若き息子です。

明日登場するのは、真田幸昌(大助)。
第6回は、「父と運命を共にする」真田幸昌(大助)の物語に迫ります。

1601-1615を生きた武士。真田信繁(幸村)の長男として、父が九度山に配流されていた時期に生まれた。幼少期を蟄居生活のうちに過ごし、父の不屈の姿を間近で見て育つ。1614年、大坂の陣が始まると父とともに大坂城へ入り、まだ十代半ばの若さながら初陣を迎えた。大坂冬の陣では真田丸の戦いに加わり、翌年の夏の陣にも父に従って出陣する。天王寺・岡山の戦いで父・信繁が家康本陣へ猛攻をかけ壮絶な討死を遂げると、大助は豊臣秀頼のもとへ退き、秀頼とともに大坂城内に留まった。落城が避けられぬ状況となる中、秀頼とともに自ら死を選び、父の後を追うようにその短い生涯を閉じている。最後まで父と行動を共にし、真田の名とともに散ったその姿は、まさに「父と運命を共にする」武士であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を和歌山県とさせていただきます。
【政治の部屋|真田幸昌(大助)】父と運命を共にする
シューちゃん

今回のシリーズ「体制と距離を取り生きた者たち」って!?

Series

体制と距離を取り生きた者たち

従うことだけが、生き方ではない

戦国から江戸へ。

乱世は静かに、しかし確実に、巨大な統治体制へと収束していきました。多くの武士は、その大きな流れの中に自らの居場所を見出していきます。石高を得て、役職を授かり、組織という船の一員として、新しい時代を漂っていく。それこそが、誰もが目指す「成功」の型でした。

しかし、すべての者が、同じ船に乗り込んだわけではありません。中央の権力からは、あえて一歩、距離を置き続けた者。表舞台の光を避け、あえて影の中に 身を置き続けた者。石高や地位よりも、一本の剣に 生涯を捧げた者。時代そのものに 背を向け、最後まで抗い続けた者。彼らは、体制に忠実な従者でも、単純な反逆者でもありません。

本シリーズが描くのは、巨大な秩序という船の外で、それぞれの舵を取り続けた七人の物語です。

なぜ、体制と距離を取るのか

歴史は、体制の中に「入った者」と、体制に「翻弄された者」、その二つの物語で語られがちです。

しかし、 その狭間には、第三の生き方が確かに存在していました。権力に媚びることなく、しかし正面から刃を交えることもなく、自らの間合いで、静かに時代と渡り合う。その姿勢は、決して逃げでも弱さでもありません。何を差し出し、何を差し出さないのか。その一線こそが、彼らなりの無言の意思表示でした。

本シリーズが伝えたいのは、「体制と共に生きること」と、「体制から距離を置くこと」。この二つは、決して対立する道ではなく、どちらもまた、乱世を生き抜くための確かな戦略だったという視点です。

立ち位置の選択とは

体制の内側に身を置くことだけが、生き残る唯一の道 ではありません。距離を取ること。あえて前に出ないこと。自らの信念を 最後まで 手放さないこと。それもまた、確かな一つの選択です。

歴史を動かしたのは、天下を取った勝者だけでは ありません。巨大な体制と向き合いながらも、自分だけの間合いを守り続けた人々もまた、確かにそこにいました。このシリーズの七人の人生から浮かび上がってくるのは、「どこに属するか」だけではなく、「どのように属するか」もまた、人生を静かに 左右するという視点です。

それぞれの距離感を通して、教科書の歴史だけでは見えてこない、もう一つの戦国・江戸史を、一緒に旅していきましょう。

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ