剣豪。柳生宗厳(石舟斎)の孫として大和国柳生の地に生まれ、幼少より祖父から新陰流剣術を学んだ。叔父・柳生宗矩が徳川将軍家の剣術指南役として幕政にも関わり大名へと昇ったのに対し、利厳は江戸の権力中枢に加わる道を選ばず、尾張徳川家に仕えて剣の道を追求し続けた。尾張藩の兵法指南役として新陰流を伝え、その奥義と精神を後世に残すことに力を注ぐ。政治的地位や栄達を求めず、あくまで剣術の本質を極め、一門の技を尾張柳生流として確立したその生涯は、幕府の中枢で活躍した叔父とは異なる道であった。まさに「権力より剣を選ぶ」剣豪であった。
江戸時代編.15
シリーズ:体制と距離を取り生きた者たち 第3回
柳生利厳(兵庫助)
Yagyu Toshitoshi
権力より剣を選ぶ
Information
教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

「権力より剣を選ぶ」柳生利厳(兵庫助)の物語
どのような時代を生きたのか
柳生利厳が生きた十六世紀後半から十七世紀半ばは、豊臣秀吉↗ による天下統一を経て、徳川家康↗が江戸幕府を開き、その支配体制が二代・秀忠、三代・家光へと引き継がれていく、戦国から泰平への大きな転換期でした。利厳は柳生新陰流の祖・柳生宗厳(石舟斎)の孫として、大和国柳生の地に生まれます。祖父・宗厳は、剣豪・上泉信綱↗から新陰流の奥義を伝えられ、後に徳川家康↗の剣術指南役ともなった人物でした。
柳生家は本来、大和国内に所領を持つ、地侍としての家柄でもありました。しかし1594年、豊臣秀吉↗による太閤検地の際、柳生家は所領を没収され、一時的に代々の領地を失うことになります。利厳は若くしてこうした家の苦難を経験しながら、祖父・宗厳のもとで新陰流の剣を学び、その技を深く体得していきました。
やがて柳生家の家督は、利厳の叔父にあたる柳生宗矩↗が継ぎ、宗矩は徳川将軍家の剣術指南役として、幕府の中枢に近い立場を得ていくことになります。一方の利厳は、宗矩とは異なる道を歩んでいきます。
この人物が「距離を置いた」ものとは
利厳が距離を置いたもの、それは、「叔父・宗矩が歩んだ、幕府への出仕と政治的な栄達の道」でした。
叔父・柳生宗矩↗は、徳川家に仕え、将軍家剣術指南役という地位を足がかりに、大名にまで取り立てられ、幕政にも一定の影響力を持つ存在へと成長していきました。柳生新陰流の正統な継承者として、利厳もまた、同様の道を歩む可能性はあったと考えられます。
しかし利厳は、将軍家への接近や政治的な出世の道を選ばず、一時は関ヶ原の戦いにおいて、西軍方に属したとも伝えられ、その後の人生においても、幕府の中枢に近づく道からは、距離を置き続けました。利厳がなぜ、叔父とは異なる道を選んだのか、その具体的な理由については、史料上明確に語られているわけではなく、後世の推測に基づく部分も少なくありません。
政治的な栄達を求める道と、剣の道そのものを深めていく道。利厳が距離を置いたのは、権力に近づくことによって得られる、地位や安定そのものだったのです。
この人物が示した「生き方」とは
利厳が示した生き方とは、「幕府の中枢へ近づく道を選ばず、剣の技そのものを深め、後進へ伝えることに生涯を捧げること」でした。
利厳は諸国を巡り、剣の修行を重ねたと伝えられています。その後、尾張徳川家に客分として招かれ、剣術指南にあたることになりますが、これは将軍家の中枢で政治に関与する江戸柳生とは異なる、純粋に剣技に専念できる環境でもありました。利厳は尾張柳生家の実質的な祖となり、新陰流の技と教えを後進へ伝え、「尾張柳生流」の基盤を築いていきました。叔父・宗矩の系統である江戸柳生家が、将軍家剣術指南役として、幕政の中枢に近い立場を占めたのに対し、利厳の尾張柳生家は、剣そのものの技と理を、より純粋に追求する系譜として、発展していくことになります。
地位や政治力を求めるのではなく、剣の道そのものを究め、次代へ継承すること。それこそが、利厳が選び取った、静かな生き方だったのです。
その生涯は何を語ったのか
1650年、柳生利厳は七十一歳でその生涯を閉じました。
利厳が築いた尾張柳生家の新陰流は、その後も尾張藩において、代々受け継がれていくことになります。一方、叔父・宗矩が築いた江戸柳生家は、将軍家指南役として幕政に深く関わり、大名としての地位を保ち続けました。同じ柳生新陰流を継ぐ一族でありながら、一方は権力の中枢に近づき、もう一方は剣の道そのものに専念する。この対照的な二つの歩みは、戦国から泰平への時代において、剣という技能が持つ、異なる可能性を示すものでもありました。利厳の生涯が語るもの、それは権力や地位に近づくことだけが、一つの技や家を存続させる道ではないという事実です。
柳生利厳の生涯は、そのことを私たちに静かに語りかけています。
まさに「権力より剣を選ぶ」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、浅野幸長
柳生利厳が保ったのは、政治的な栄達よりも、剣の道そのものを選び取る距離でした。
しかし体制と距離を取る生き方には、もう一つの形があります。一つの体制に留まり続けるのではなく、複数の体制の間を、自らの判断で渡り歩いた者です。
明日登場するのは、浅野幸長。
第4回は、「体制間を渡り歩く」浅野幸長の物語に迫ります。
柳生利厳(兵庫助)にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「体制と距離を取り生きた者たち」って!?
体制と距離を取り生きた者たち
従うことだけが、生き方ではない
戦国から江戸へ。
乱世は静かに、しかし確実に、巨大な統治体制へと収束していきました。多くの武士は、その大きな流れの中に自らの居場所を見出していきます。石高を得て、役職を授かり、組織という船の一員として、新しい時代を漂っていく。それこそが、誰もが目指す「成功」の型でした。
しかし、すべての者が、同じ船に乗り込んだわけではありません。中央の権力からは、あえて一歩、距離を置き続けた者。表舞台の光を避け、あえて影の中に 身を置き続けた者。石高や地位よりも、一本の剣に 生涯を捧げた者。時代そのものに 背を向け、最後まで抗い続けた者。彼らは、体制に忠実な従者でも、単純な反逆者でもありません。
本シリーズが描くのは、巨大な秩序という船の外で、それぞれの舵を取り続けた七人の物語です。
なぜ、体制と距離を取るのか
歴史は、体制の中に「入った者」と、体制に「翻弄された者」、その二つの物語で語られがちです。
しかし、 その狭間には、第三の生き方が確かに存在していました。権力に媚びることなく、しかし正面から刃を交えることもなく、自らの間合いで、静かに時代と渡り合う。その姿勢は、決して逃げでも弱さでもありません。何を差し出し、何を差し出さないのか。その一線こそが、彼らなりの無言の意思表示でした。
本シリーズが伝えたいのは、「体制と共に生きること」と、「体制から距離を置くこと」。この二つは、決して対立する道ではなく、どちらもまた、乱世を生き抜くための確かな戦略だったという視点です。
体制の内側に身を置くことだけが、生き残る唯一の道 ではありません。距離を取ること。あえて前に出ないこと。自らの信念を 最後まで 手放さないこと。それもまた、確かな一つの選択です。
歴史を動かしたのは、天下を取った勝者だけでは ありません。巨大な体制と向き合いながらも、自分だけの間合いを守り続けた人々もまた、確かにそこにいました。このシリーズの七人の人生から浮かび上がってくるのは、「どこに属するか」だけではなく、「どのように属するか」もまた、人生を静かに 左右するという視点です。
それぞれの距離感を通して、教科書の歴史だけでは見えてこない、もう一つの戦国・江戸史を、一緒に旅していきましょう。
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