学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
江戸時代編.32
シリーズ:泰平の裂け目 ―忠義と反逆の元禄― 第4回
新井白石
Arai Hakuseki
学問で泰平を再設計する
Information
教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

「学問で泰平を再設計する」新井白石の物語
どのような時代を生きたのか
新井白石が生きた十七世紀後半から十八世紀前半は、五代将軍・徳川綱吉↗の治世が終わりを迎え、六代・家宣、七代・家継へと将軍職が引き継がれるなかで、幕府が統治のあり方を大きく再構築しようとした激動の転換期でした。
白石は1657年(明暦三年)、上総国久留里藩の下級武士の家に生まれます。過酷な環境にありながら独学で猛勉強を重ねた白石は、やがて朱子学者・木下順庵の門に入り、その頭角を現しました。後年、白石は加賀藩主・前田綱紀↗が誇る膨大な蔵書を評して「天下の書府」と称することになります。順庵の強い推挙を受けた白石は、甲府藩主・徳川綱豊の儒臣として召し抱えられます。当時の幕府は、度重なる貨幣改鋳による物価高騰と経済の混乱、更には「生類憐みの令」に代表される極端な法運用によって、深刻な政治的疲弊に直面していました。
1709年(宝永六年)、綱吉の急死に伴い綱豊が六代将軍・家宣として就任すると、白石は将軍の「頭脳」として幕政の中枢へと躍り出ます。側用人・間部詮房とともに、学者としての膨大な知見を武器に、幕府の構造改革へと乗り出すことになりました。
この人物が向き合った「均衡」とは
白石が向き合った均衡とは、
「朱子学が掲げる理想の道義政治と、膨大に膨れ上がった現実の幕府機構との均衡」でした。
家宣政権の発足にあたり、白石が断行しようとしたのは、失われた幕府の権威と経済の秩序を取り戻すことでした。しかし、学問の書物に書かれた正論をかざすだけでは、百数十年続いてきた幕府の巨大な慣行や権力構造はビクともしません。とりわけ、財政実務を牛耳っていた勘定奉行・荻原重秀との対立は熾烈を極めました。「貨幣は紙くずでも幕府の刻印があれば通用する」と重秀が主張したと伝えられていますが、これは対立関係にあった白石自身の回顧録『折たく柴の記』に基づく記述であり、荻原本人の言葉として確定しているものではありません。それでも白石は、「貨幣の信用低下こそが物価高騰と庶民の苦しみの元凶である」と強く反発します。
慣行と妥協を許す実務派と、道義と制度の根本を正そうとする白石。改革を急げば幕府機構そのものが麻痺し、かといって現実の悪弊に甘んじれば泰平の土台が腐敗していく。白石が向き合ったのは、崇高な学問的理想と、冷酷な政治的現実の間で綱渡りをするような、あまりに緊迫した均衡だったのです。
この人物が示した泰平との「向き合い方」とは
白石が示した向き合い方とは、
「学問を単なる教養にとどめず、社会制度を根本から再設計するための『刃』として振るうこと」でした。
白石が間部詮房とともに推進した一連の改革は、のちに「正徳の治(しょうとくのち)」と称されます。白石は激しい政治闘争の末に荻原重秀を失脚させ、金銀の品位を元禄以前の高品質に戻した「正徳金銀」を発行して通貨信用の回復を図りました。また「生類憐みの令」などの過度な法令を廃止・緩和して民心を安んじ、1715年には「海舶互市新例」を定めて長崎貿易の金銀流出を厳しく制限しました。さらに外交・儀礼の分野でも、儒学的な正統論に基づいて改革を断行します。朝鮮通信使の待遇を見直し、将軍の対外的な称号を従来の「日本国大君」から「日本国王」へと変更して、幕府の権威を国際的に再定義しようと試みました。また、密航して捕らえられたイタリア人宣教師シドッチの取調べにおいては、キリスト教を退けつつも彼の持つ地理・科学知識を冷静かつ知的に吸収し、日本初の本格的な西洋研究書『西洋紀聞』や『采覧異言』を著しました。
偏見を排し、鋭い論理と知識によって世界と社会を透視する。それこそが、白石の学問を通じた泰平への挑み方でした。
その生涯は何を残したのか
1725年(享保十年)、新井白石は六十八歳でその生涯を閉じました。
1716年、七代将軍・家継が幼くして没し、紀州藩主・徳川吉宗↗が八代将軍に就任すると、実務と質実剛健を重んじる吉宗によって白石の政策は多くが覆され、白石自身も幕政の表舞台から去ることになります。しかし、失脚した後の白石は、失意に沈むことなく執筆に没頭しました。日本初の本格的な自叙伝『折たく柴の記』、鋭い史観で歴史を再解釈した『読史余論』など、いまなお日本思想史に燦然と輝く名著を次々と書き上げました。白石が遺した最大の足跡は、「一人の学者が、知識の力をもって国家の最高方針と制度を書き換えることができる」という圧倒的な前例を作ったことでした。
権力に迎合することなく、己の知性と信念を武器に泰平の構造を組み替えようとしたその凄絶な生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」という名にふさわしいものでした。
明日は、青木昆陽
新井白石が試みたのは、幕府中枢から学問の力で国家の骨組みを再設計することでした。
しかし、泰平の世を根底から揺るがす最大の脅威は、制度の不備だけではありません。無情にも人々を襲う「飢饉」という現実でした。
明日登場するのは、一粒の芋に民を救う希望を託した実学者、青木昆陽。
第5回は、「甘藷で泰平を繕う」青木昆陽の物語に迫ります。
新井白石にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「泰平の裂け目」って!?
泰平の裂け目忠義と反逆の元禄
完成された泰平の、その内側で
徳川家康が幕府を開き、秀忠、家光と三代にわたって統治の基盤を固めると、日本は長い戦乱の時代を脱し、安定した社会へと歩み始めました。四代・家綱、五代・綱吉の頃になると、戦のない暮らしは、もはや特別なものではなく、一つの「当たり前」として定着していきます。
しかし、その泰平は、決して自然に続いていたわけではありません。保科正之は、幼い将軍を託され、幕府を支える仕組みそのものを整え、牧野成貞は、新設された側用人として、将軍と幕閣という二つの世界をつなぎ、前田綱紀は、仁政と学問によって、加賀百万石の安定を築きました。新井白石は、学問の力で政治の理論を組み直し、青木昆陽は、一本の甘藷(さつまいも)を通じて、飢饉という最悪の未来への備えを静かに広げていきます。
けれども、どれほど完成されたように見える社会でも、その内側には必ず、歪みと矛盾が蓄積していきます。平和の時代の到来とともに進められた大名統制の結果、職を失った浪人たちの不満。そして、武士の倫理である「忠義」と、幕府が求める「法秩序」との間に生じる、埋めがたい緊張。
三代・家光の死の直後に起きた由井正雪の「慶安事件」は、その不満のマグマが噴き出した最初の瞬間でした。そして元禄十四年(1701)、浅野長矩による江戸城・松の廊下での刃傷は、潜んでいた緊張を、一気に表面化させることになります。
泰平の世に生じた、小さな、しかし決定的な裂け目。本シリーズが描くのは、その裂け目がどのように生まれ、どのように広がっていったのかという物語です。
忠義は、なぜ反逆になり得るのか
安定した体制とは、一度完成すれば永遠に維持されるものではありません。支える者がいて、守る者がいて、初めて成り立つ、危うい均衡の上に咲いた花です。
本シリーズの前半で描くのは、その均衡を誠実に支え続けた人々です。政治によって。学問によって。あるいは、一つの作物によって。それぞれが異なる立場から、戦乱なき社会を維持するために力を尽くしました。
しかし後半で描くのは、その均衡を揺るがすことになった人々です。由井正雪は、溢れかえる浪人たちの失意と不満を背に、幕府へと反旗を翻しました。浅野長矩の刃傷は、一人の大名の衝動にとどまらず、やがて江戸社会を大きく揺るがした赤穂事件へと発展していきます。そして大石良雄や堀部武庸ら赤穂浪士は、亡き主君への「忠義」を貫いた結果、幕府の「法」を破る存在となってしまいました。
ここには、歴史の大きな逆説が存在します。社会の秩序を支えるはずの「忠義」が、時として、秩序そのものへの脅威となってしまうということです。
本シリーズが伝えたいのは、「忠義」と「反逆」は、決して正反対の概念ではないということです。むしろ両者は、表裏一体、紙一重の場所に存在していました。だからこそ「元禄」という時代は、単なる華やかな黄金期としてではなく、人の心の葛藤を描く一つのドラマとして、今なお私たちを惹きつけてやまないのです。
安定した社会とは、葛藤のない「一枚岩の社会」ではありません。むしろ多くの矛盾や緊張を抱え込みながら、それらを絶えず調整し続けることで、辛うじて維持されている、「動的な状態」です。
制度と学問で秩序を支えた者として、保科正之、新井白石。実学と民政で暮らしを支えた者として、前田綱紀、青木昆陽。体制からこぼれ落ちた不満の象徴となった由井正雪。武士社会が最も重んじた忠義ゆえに、法と衝突してしまった浅野長矩、そして赤穂浪士たち。
完成されたように見える社会だからこそ、内部で生じる「裂け目」は深く、時に残酷な問いを突きつけます。なお、由井正雪の出生地・生年には諸説があり史料上の確証はなく、また吉良義央の「悪役」としての人物像の多くは、後世の創作『忠臣蔵』によって形成された側面が大きいことにも、留意しておきたいところです。
元禄文化の華やかな光の陰で、静かに広がっていたその裂け目を追うことは、翻って、現代の私たちが生きる「安定した社会」の本質を、見つめ直すことでもあります。
支えた者たち。揺るがした者たち。そして、その狭間で葛藤し、生きた者たち。彼らの足跡を通して、元禄という時代の底に流れる、「泰平の裂け目」の世界を、ともに旅していきましょう。
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