保科正之 イラストポートレート

江戸時代編.29

シリーズ:泰平の裂け目 ―忠義と反逆の元禄― 第1回

保科正之

Hoshina Masayuki

会津から泰平を支える

1611–1673 | 出生地:東京都 | 政治の部屋

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教科書で見かけたあの有名人

実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?

彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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今回のシリーズ「泰平の裂け目」って!?

Series

泰平の裂け目忠義と反逆の元禄

完成された泰平の、その内側で

徳川家康が幕府を開き、秀忠、家光と三代にわたって統治の基盤を固めると、日本は長い戦乱の時代を脱し、安定した社会へと歩み始めました。四代・家綱、五代・綱吉の頃になると、戦のない暮らしは、もはや特別なものではなく、一つの「当たり前」として定着していきます。

しかし、その泰平は、決して自然に続いていたわけではありません。保科正之は、幼い将軍を託され、幕府を支える仕組みそのものを整え、牧野成貞は、新設された側用人として、将軍と幕閣という二つの世界をつなぎ、前田綱紀は、仁政と学問によって、加賀百万石の安定を築きました。新井白石は、学問の力で政治の理論を組み直し、青木昆陽は、一本の甘藷(さつまいも)を通じて、飢饉という最悪の未来への備えを静かに広げていきます。

けれども、どれほど完成されたように見える社会でも、その内側には必ず、歪みと矛盾が蓄積していきます。平和の時代の到来とともに進められた大名統制の結果、職を失った浪人たちの不満。そして、武士の倫理である「忠義」と、幕府が求める「法秩序」との間に生じる、埋めがたい緊張。

三代・家光の死の直後に起きた由井正雪の「慶安事件」は、その不満のマグマが噴き出した最初の瞬間でした。そして元禄十四年(1701)、浅野長矩による江戸城・松の廊下での刃傷は、潜んでいた緊張を、一気に表面化させることになります。

泰平の世に生じた、小さな、しかし決定的な裂け目。本シリーズが描くのは、その裂け目がどのように生まれ、どのように広がっていったのかという物語です。

忠義は、なぜ反逆になり得るのか

安定した体制とは、一度完成すれば永遠に維持されるものではありません。支える者がいて、守る者がいて、初めて成り立つ、危うい均衡の上に咲いた花です。

本シリーズの前半で描くのは、その均衡を誠実に支え続けた人々です。政治によって。学問によって。あるいは、一つの作物によって。それぞれが異なる立場から、戦乱なき社会を維持するために力を尽くしました。

しかし後半で描くのは、その均衡を揺るがすことになった人々です。由井正雪は、溢れかえる浪人たちの失意と不満を背に、幕府へと反旗を翻しました。浅野長矩の刃傷は、一人の大名の衝動にとどまらず、やがて江戸社会を大きく揺るがした赤穂事件へと発展していきます。そして大石良雄や堀部武庸ら赤穂浪士は、亡き主君への「忠義」を貫いた結果、幕府の「法」を破る存在となってしまいました。

ここには、歴史の大きな逆説が存在します。社会の秩序を支えるはずの「忠義」が、時として、秩序そのものへの脅威となってしまうということです。

本シリーズが伝えたいのは、「忠義」と「反逆」は、決して正反対の概念ではないということです。むしろ両者は、表裏一体、紙一重の場所に存在していました。だからこそ「元禄」という時代は、単なる華やかな黄金期としてではなく、人の心の葛藤を描く一つのドラマとして、今なお私たちを惹きつけてやまないのです。

泰平とは、静止した状態ではない

安定した社会とは、葛藤のない「一枚岩の社会」ではありません。むしろ多くの矛盾や緊張を抱え込みながら、それらを絶えず調整し続けることで、辛うじて維持されている、「動的な状態」です。

制度と学問で秩序を支えた者として、保科正之、新井白石。実学と民政で暮らしを支えた者として、前田綱紀、青木昆陽。体制からこぼれ落ちた不満の象徴となった由井正雪。武士社会が最も重んじた忠義ゆえに、法と衝突してしまった浅野長矩、そして赤穂浪士たち。

完成されたように見える社会だからこそ、内部で生じる「裂け目」は深く、時に残酷な問いを突きつけます。なお、由井正雪の出生地・生年には諸説があり史料上の確証はなく、また吉良義央の「悪役」としての人物像の多くは、後世の創作『忠臣蔵』によって形成された側面が大きいことにも、留意しておきたいところです。

元禄文化の華やかな光の陰で、静かに広がっていたその裂け目を追うことは、翻って、現代の私たちが生きる「安定した社会」の本質を、見つめ直すことでもあります。

支えた者たち。揺るがした者たち。そして、その狭間で葛藤し、生きた者たち。彼らの足跡を通して、元禄という時代の底に流れる、「泰平の裂け目」の世界を、ともに旅していきましょう。

シューちゃん

「会津から泰平を支える」保科正之の物語

どのような時代を生きたのか

保科正之が生きた十七世紀は、徳川家康↗、秀忠、家光と三代にわたって幕府の支配体制が固められ、戦乱の記憶を残しながらも、泰平の世が本格的に定着していく時代でした。

正之は1611年(慶長十六年)、二代将軍・徳川秀忠↗の庶子として生まれます。当時の将軍家の事情——とりわけ正室・江への配慮からその出生は公にはされず、信濃高遠藩主・保科正光の養子として秘めやかに育てられました。やがてその出自が将軍家に認められると、異母兄にあたる三代将軍・徳川家光↗から並々ならぬ厚い信任を受けるようになります。正之は高遠藩主、山形藩主を経て、1643年(寛永二十年)には陸奥会津二十三万石の藩主となり、のちの会津松平家の祖となりました。

家光から深く信頼された正之は、単なる一大名にとどまらず、やがて徳川幕府そのものの命運を支える重責を担っていくことになります。

この人物が向き合った「均衡」とは

正之が向き合った均衡とは、
「幼い将軍を支えながら、幕府の安定と法秩序を維持する」という均衡でした。

1651年(慶安四年)、三代将軍・家光が四十七歳で世を去ると、嫡子の家綱がわずか十歳で四代将軍に就任します。家光は臨終の際、正之の手を握り、「幼主(家綱)を頼む」と言い残したと伝えられています。なお、この逸話の詳細な言葉づかいについては、後世の編纂物に基づくものであり、史実としての確証はありません。将軍自らが政務を主導できない状況のなか、いかに幕府を安定して運営するかは極めて切迫した課題でした。しかも同じ年には、由井正雪↗らによる幕府転覆計画「慶安事件」が発覚します。新たな将軍を戴いた幕府の足元は、決して盤石とはいえませんでした。将軍の叔父という絶大な立場にあった正之は、望めば強大な権力を振るうこともできたはずです。しかし正之は決して自ら前面に躍り出ることなく、補佐役に徹し続けました。

正之が守ろうとしたのは、個人の権勢ではなく、将軍の権威と泰平の安定。そのために必要だったのは、力を誇示することではなく、自らの力を徹底して抑制することだったのです。

この人物が示した泰平との「向き合い方」とは

正之が示した向き合い方とは、
「仁政によって人々を支え、自らは権力を私しない」ことでした。

正之は家綱の後見役として幕政の中枢に加わり、武力で抑え込む「武断政治」から、法規と仁政によって治める「文治政治」への転換を強力に推し進めました。家綱政権下で実施された、末期養子の禁の緩和、殉死の禁止、大名証人(人質)制度の廃止といった武家社会の構造改革は、正之らの主導によるものです。さらに1657年の「明暦の大火」の際には、江戸城天守閣の再建よりも被災者の救済と江戸の復興を最優先させるなど、人命と実理を重んじる政治を貫きました。

また会津藩主としても、正之は領民の生活を第一とする仁政を展開します。日本初となる本格的な「社倉制」を設けて飢饉に備え、窮民救済や高齢者への「老人扶持」を支給するなど、当時としては画期的な福祉施策を行いました。なお、支給対象となる年齢の基準については史料によって記述に幅があり、90歳以上とする説のほか、これより広い年齢層を対象としたとする見方もあります。さらに儒学者・山崎闇斎を招いて学問を奨励し、士道の振興にも努めています。正之は常に、「支配するための政治」ではなく「支えるための政治」を志向していました。

その姿勢を極限まで象徴するのが、のちに会津藩の精神的支柱となる「会津家訓十五箇条」です。第一条には「会津藩は将軍家を守護すべきもの」と厳格に定められており、自らが将軍家の血を引く存在でありながら、どこまでも主君は江戸の将軍家であるという家臣としての立場を貫きました。

将軍の叔父でありながら、どこまでも将軍家を支える「臣」に徹した姿勢こそ、正之の生き方そのものだったのです。

その生涯は何を残したのか

1673年(寛文十二年)、保科正之は六十二歳でその生涯を閉じました。

正之が築いた会津藩の統治理念は、その後も代々の会津松平家に受け継がれ、幕末に至るまで藩の揺るぎない精神的支柱であり続けました。また幕府においては、幼い将軍を支えて政治を安定させ、戦国の余風を残す武断政治から平和な文治政治への移行という歴史的転換期を、大きな破綻なく乗り越えさせました。泰平の世は、己の力を誇示する強い権力者一人によって保てるものではありません。
目立たぬ場所で制度を整え、己を抑えて秩序を守り、次の世代へ平和を繋ぐ人々によって支えられています。

権力を求めることなく、ただ将軍家と民の暮らしを支え続けたその生涯は、まさに「会津から泰平を支える」という名にふさわしいものでした。

Coming Next

明日は、牧野成貞

保科正之が果たしたのは、幼い将軍の後見として幕府の土台を静かに固めることでした。

しかし、泰平の世が熟していくにつれ、将軍のすぐ傍らで政治を動かす「新たな役割」が必要とされていきます。

明日登場するのは、初代御側御用人・牧野成貞。
第2回は、「側用人として泰平を動かす」牧野成貞の物語に迫ります。

1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|牧野成貞】側用人として泰平を動かす

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