後伏見天皇





Emperor Go-Fushimi (1288-1336)

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後伏見天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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後伏見天皇って

館長

後伏見天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

シリーズ「両統迭立の臨界点ー 天皇たちの選択 ー」がスタートしたね

館長

今シリーズは、南北朝という大分裂が現実となる直前に立たされた、
四人の天皇の姿を描いていきます

こんな背景

シリーズ:両統迭立の臨界点ー 天皇たちの選択 ー

第1回: 後伏見天皇〜統を守るため、耐え、受け入れた帝〜

今回のシリーズ:「両統迭立の臨界点ー 天皇たちの選択 ー」は…

執権たちの時代、
前シリーズ「執権という舞台 )」がが描いたように、
武士の国は一つの完成を迎えました。

外敵を退け、
国内の秩序を保ち、
「国家を守る力」を、武士が現実として担い切ったのです。

しかし、それは同時に、
別の問いを静かに浮かび上がらせることになりました。

天皇とは、いま、何者なのか。
王権は、この国のどこに立つべきなのか。

承久の乱によって、
天皇が武力で武士に挑む時代は、すでに終わっていました。

前々回のシリーズ、
「承久の乱という劇場icon name="fa-solid fa-arrow-up-right-from-square"] 」 で描いてきたように、
帝たちは敗れ、流され、あるいは耐えながら、
それぞれの立場で、

「天皇として、どう生き残るか」

を模索し続けてきました。

そして「執権という舞台」が示したのは、
武士が国家を統治し、防衛し得るという、
もはや揺るがぬ現実でした。

では、その現実の前で、
天皇はいかに在るべきだったのでしょうか。

剣を取ることはできない。
だが、沈黙し続けることもできない。

こうして天皇家の内部で、
一つの選択が制度として形を取ります。

両統迭立

皇位を、
持明院統と大覚寺統、
二つの家系で交互に継ぐという、
前例なき仕組みでした。

争うためのの分裂ではありません。
分裂を避けるために選び取られた、苦渋の並立でした。

しかし、均衡とは、
保とうとすればするほど緊張を孕むものです。

この制度は、
秩序を生むと同時に、
いつ破綻してもおかしくない不安定さを内包していました。

このシリーズ、
「両統迭立の臨界点 ― 天皇たちの選択 ―」 では、
南北朝という大分裂が現実となる直前、

その均衡が限界に達する地点に立たされた、
四人の天皇の姿を描いていきます。

これは勝者の物語ではありません。
そして、まだ敗者の物語でもありません。

両統迭立という制度が、
その限界を迎える 臨界点 。

そこに立たされた天皇たちの、
先の見えない、後戻りのつかない決断の記録です。

「両統迭立の臨界点ー天皇たちの選択 ー」

第1回 後伏見天皇

統を守るため、耐え、受け入れた帝

1

第2回 後二条天皇

大覚寺統の希望を背負い、短く燃え尽きた帝

2

第3回 花園天皇

理性と倫理で均衡を支え続けた、哲人の帝

3

第4回 後醍醐天皇

並立という妥協を拒絶し、時代を動かした帝

4
統を背負って即位した幼帝

鎌倉幕府が、
外敵を退け、秩序を保ち、
「国家を守る力」を武士が担い切ったその時代。

王権は、すでに武力によって主導権を取り戻す立場にはありませんでした。
その現実の只中で、皇位に立たされたのが、
後伏見天皇 でした。

伏見天皇の皇子として生まれ、
1298年、わずか11歳で即位。

持明院統※の正統を継ぐ存在として、
そして両統が拮抗する緊張の中心として、
幼くして「帝の役割」を背負わされることになります。
※持明院統とは、後嵯峨天皇 の長子・後深草天皇 を祖とし、「長子の正統」を守ろうとした皇統

両統迭立という枠組みの中で

この時代、
天皇家の内部ではすでに一つの選択がなされていました。

皇位を
持明院統と大覚寺統、
二つの家系で交互に継ぐ。
それが、両統迭立です。

争いを避けるための制度。
武力によらず、秩序で王権を保つための苦渋の決断でした。

後伏見天皇の即位は、
その制度の只中で行われたものであり、
彼自身に大きな裁量があったわけではありません。

統を代表する存在として、そこに立たされた。

それが、後伏見天皇の出発点でした。

幕府裁定という現実

在位は、わずか三年。

その後、鎌倉幕府の裁定により、
大覚寺統の後二条天皇へと皇位が移されます。

それは敗北でも、失脚でもありません。
両統迭立という制度を守るための譲位でした。

後伏見天皇は、
その決定に抗う道を選びません。

剣を取ることはできない。
だが、制度を壊すこともしなかった。

ここで彼が選んだのは、

「受け入れる」という統治のかたち

でした。

院政という「耐える時間」

譲位後、後伏見天皇は院政期に入ります。
この時間は、決して穏やかなものではありません。

皇位は他統へ。
権威は分有。
主導権は幕府の手中。

それでも後伏見天皇は、
持明院統という「統」そのものを守ることに徹しました。

急がず、争わず、
制度を壊さず、
次に繋ぐ。

後伏見天皇の政治とは、
目立つ改革ではなく、
家系を絶やさないための持続の政治だったのです。

皇位を「制度」で守るという選択

両統迭立は、不安定な制度でした。
しかし、壊してしまえば、
再び武力の時代へ逆戻りしてしまう。

後伏見天皇はそれを理解していたと考えられています。
だからこそ、

「交互に即位する」

という不完全な仕組みを、
あえて受け入れ、
それを前提に統を存続させる道を選びました。

その選択は、
華やかさとは無縁で、
称賛されにくい。

一方で、
耐えなければ、次はなかったのです。

次の世代へ

後伏見天皇の選択は、
花園天皇 へ、
そして光厳天皇へと引き継がれていきます。

これは、
勝者の物語ではありません。
そして、敗者の物語でもありません。

統を残すために、己を後退させた帝の物語

です。

明日は、後二条天皇

後伏見天皇が
「耐える」という選択を貫く一方で、
その譲位を受けた後二条天皇は
大覚寺統※の天皇でした。

そこには、
もう一つの期待が託されていました。

長く抑えられてきた系統に、
ようやく訪れた希望。
それを一身に背負って即位した、若き天皇です。

しかしその治世は、
あまりにも短く、
あまりにも早く幕を閉じることになります。

※大覚寺統とは、後嵯峨天皇 の第二皇子・亀山天皇 を祖とし、「実力と調停によって皇位を継ぐ現実的継承」を正統と考えた皇統

明日は、「大覚寺統の希望を背負い、短く燃え尽きた帝」、
後二条天皇の物語に迫ります。

1285-1308を生きた政治家(第94代天皇)。後宇多天皇の第一皇子(大覚寺統)として生まれ、1301年に17歳で即位。久方ぶりに実現した大覚寺統の天皇として、一門の期待を一身に背負う存在であった。在位中は父・後宇多院の院政下で比較的安定した政務が行われ、持明院統との「交互即位(両統迭立)」という危うい均衡が、かろうじて保たれた時代を象徴する。しかし、その治世はわずか7年、24歳(満23歳)という若さでの崩御により唐突に幕を下ろした。 この早すぎる死は、大覚寺統内に深刻な後継者問題を引き起こし、のちに倒幕へと突き進む弟・後醍醐天皇の運命を大きく狂わせる分岐点となった。短命ながらも、両統迭立体制の「平衡」を身をもって示した天皇である。
【政治の部屋|後二条天皇】大覚寺統の希望を背負い、短く燃え尽きた帝

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1846-1866を生きた徳川十四代将軍。紀州藩主・徳川斉順の子として、父の死から16日後に江戸の紀州藩邸で生まれ、満2歳で紀州藩主を継いだ。1858年、将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派の支持を受け、満12歳で第14代将軍に就任する。1862年には孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎え、朝廷と幕府の融和を図る公武合体を象徴する存在となった。翌年には家光以来およそ230年ぶりとなる上洛を果たし、朝廷からの強い攘夷要求を受けて幕府として攘夷実行を約束する。続く上洛では将軍として初めて海路を用いるなど、朝廷との関係維持に奔走した。勝海舟の進言を容れて神戸海軍操練所の設置を認めるなど、新しい時代への理解も示している。1866年、第二次長州征伐のため滞在していた大坂城で病に倒れ、満20歳で死去した。和宮との仲は睦まじく、側室を置かなかったと伝えられる。家茂の死を知った勝海舟は日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記した。若くして朝廷と幕府の狭間に立ち続け、その調停に心身を削ったその生涯は、まさに「公武合体に若き命を賭す」将軍であった。
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政治の部屋
1824-1858を生きた徳川十三代将軍。文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城西の丸に生まれる。多くの兄弟が幼くして亡くなるなかで唯一成人し、将軍後継者となった。幼少から病弱であったため、その器量や健康状態を不安視する声もあったが、老中・阿部正弘らの支持を受けて世子の地位を固めた。1853年、黒船来航の混乱のさなかに家慶が死去すると、同年中に第13代将軍に就任する。翌年には日米和親条約が締結されたが、家定自身は病状が重く、幕政は阿部正弘、ついで堀田正睦らが主導した。御台所に天璋院(篤姫)を迎えるも実子には恵まれず、将軍継嗣をめぐって井伊直弼ら南紀派の推す徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が激しく対立する。1858年、家定は諸大名を前に慶福を後継者とする意向を示し、続いて一橋派の処分を発表した。これは病弱で政治的発言の少なかった家定が、自ら後継問題について明確な意思を示した数少ない場面であった。その翌日、34歳で死去する。病弱の身で黒船来航後の国難と将軍継嗣問題の渦中に置かれたその生涯は、まさに「病弱の将軍として継嗣問題に揺れる」将軍であった。
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1793-1853を生きた徳川十二代将軍。寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる。兄の早世により将軍後継者となり、1837年、44歳で第12代将軍に就任したが、実権はなお大御所・家斉が握り続けていた。家斉の死後、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を進めるものの、諸方面の反発を受けて挫折。その後は阿部正弘を重用し、海防強化や政務改革に取り組んだ。家臣の進言に「そうせい」と応じることが多かったことから「そうせい様」と渾名された一方、人材登用では優れた眼識を発揮した。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、家慶はすでに病床にあり、阿部正弘の報告に「斉昭と相談せよ」と述べるにとどまった。それから間もない同年、家慶は60歳で死去し、子の家定が跡を継いだ。徳川の泰平が終わりを迎え、幕末への扉が開かれる歴史の転換点に立ち会ったその生涯は、まさに「黒船来航に立ち会う将軍」であった。
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13東京都
1773-1841を生きた徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家斉】50年の治世で幕府を緩ませるNew!!

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