伏見天皇





Emperor Fushimi (1265-1317)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

伏見天皇をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

伏見天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として伏見天皇イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

伏見天皇って

館長

伏見天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

シリーズ:承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場もいよいよ最終回!
父・後深草天皇の不遇を晴らす「伏見天皇」の物語だね

館長

武家政権の圧倒的な力に押し流されながらも、文化と制度改革で「天皇の誇り」を問い続けた伏見天皇の物語をお楽しみください

こんな背景

シリーズ:承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場

第11回: 伏見天皇〜持明院統の誇りを守り、文化に光を求めた帝〜

今回のシリーズ:「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」は…

壇ノ浦の海で平家が滅び、壇上に立つべき幼い安徳天皇 が沈んだとき、日本の王権は深い傷を負いました。
その傷を抱えたまま、平安的な王権を守り抜こうとしたのが、

平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

後鳥羽院 でした。

文化に秀で、武芸にも通じ、「天皇の理想」を胸に抱いた希代の王は、平家滅亡後の新しい世界で、初めて真正面から「武士の国」と向き合うことを迫られました。

一方その頃、鎌倉では源 頼朝 亡きあと、カリスマを失った幕府が内部抗争に揺れ、そのすき間をぬうように北条氏が着実に台頭。「武士が国を治める秩序」をさらに築き上げ、守り固めようとしていました。


対する京では…
後鳥羽院がそのわずかな揺らぎを見逃しません。

「今こそ、武士に奪われた権威を取り戻す時である。」

院は自ら軍事力を整え、文化の力で御家人たちをも魅了し、しかし確かな意志で「帝の逆襲」の準備を進めていきます。

朝廷と武士。
王権と武家政権。
互いの正義が譲れぬ一線を越えたとき、両者は避けられない衝突へ向かっていきました。

そしてその過程で、後鳥羽院の息子たち、そして孫たちがそれぞれの「胸に帝のプライド」を宿し、自らの運命を賭けて歴史の舞台に立つことになります。

1221年。
日本史の転換点 「承久の乱」 がついに幕を上げる。

このシリーズでは、後鳥羽院の影を受け継いだ11人の天皇・院 の物語を追っていきます。
華やかな権力争いではない。
勝者の論理でもない。

これは、武士の国を前にして、帝たちが「何を守ろうとしたのか」。
その心の軌跡を描く、大いなる劇場の物語です。

「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」11人のストーリー

第1回 土御門天皇
争いを拒み、自ら流刑を望んだ「静」の帝

第2回 順徳天皇
父の理想を継ぎ、佐渡に燃え尽きた「熱」の帝

第3回 仲恭天皇
在位わずか78日、運命に翻弄された幼君

第4回 守貞親王(後高倉院)
乱の果てに、図らずも「治天の君」となった父

第5回 後堀河天皇
鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴

第6回 四条天皇
12歳で幕を閉じた、あまりに儚き治世

第7回 後嵯峨天皇
皇統分裂の種を蒔いた、苦渋の調停者

第8回 後深草天皇
持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子

第9回 亀山天皇
大覚寺統(南朝)の祖、理想を追った次子

第10回 後宇多天皇
二つの皇統を束ね、父の理想に生きた院政の主

第11回 伏見天皇
持明院統の誇りを守り、文化に光を求めた帝

父は、後深草天皇

1265年。
伏見天皇(熈仁親王)は、後深草天皇 の第二皇子として誕生しました。
父・後深草天皇は、本来なら正統な長子として皇位を継ぎ、その子孫へと受け継がせるはずの立場 でした。
しかし、祖父・後嵯峨院 の「次は弟の亀山を」という一言で、若くして、弟の亀山天皇 に譲位を余儀なくされます。

こうして後深草の血筋は皇位の本流から外され、その「静かな不遇」と「正統性への執念」は、熈仁親王(のちの伏見天皇)へ強く受け継がれることになります。
その伏見天皇はまさに「持明院統の希望」として生まれた皇子でありました。

23歳の即位

1287年。
皇位継承をめぐる緊張は極限に達していました。
兄系(後深草系)の「持明院統」と弟系(亀山・後宇多系)の「大覚寺統」。
両統の対立が激しくなる中、鎌倉幕府が下した決断は、後宇多天皇を退かせ、熈仁親王を次の帝に立てることでした。

「若く従順で、幕府が扱いやすい」

という理由もありましたが、それだけではありません。
これは長年にわたり父・後深草院が積み上げた働きかけがついに実を結んだ、持明院統の逆転劇でもあったのです。

伏見天皇の即位は、父が味わった不遇への息子による静かなリベンジ でした。

親政による公家政治の刷新

即位当初は父の院政下にありましたが、やがて伏見天皇は自ら政治を執る「親政」を開始します。

伏見天皇が挑んだのは、混乱していた公家社会の制度の立て直しでした。

庭中の設置:天皇へ直接訴え出る直訴窓口を整備
直訴制度を整理:記録所を中心に、迅速で公平な裁判を目指す改革

決して派手ではありませんが、伏見天皇は「秩序を整えることで天皇の価値を示す」 という極めて誠実な政治を目指したと伝わります。

それは、権力闘争に翻弄されがちな時代において「天皇が何を持って統治者となるのか」を問い続けた姿でもありました。

「文化」という名の、誰にも奪えない力

政治の激流に飲み込まれながらも、伏見天皇は「文化」にこそ、自らの在り方を見いだしていきます。

歌人・京極為兼とともに形成した「京極派」は、従来の形式に縛られない、写実的で透明感のある歌風を確立し、のちに「玉葉和歌集」として結実します。

後世にも模範とされる筆致を残し、その腕前は「書聖」と称されるほどで、日本書道史に確固たる名を刻みます。

武士の力が強まり、天皇の政治的権限が弱まる中で、文化こそが「誰にも奪えない力」であることを体現した帝。
それが伏見天皇でした。

両統迭立の時代へ

1298年。
伏見天皇は皇子・後伏見天皇 に譲位し、治天の君(院政)として政治の中心に戻ります。
この頃、持明院統と大覚寺統が交互に皇位を継ぐ「両統迭立」の体制が本格的に確立します。

伏見院は、父が抱いていた「正統な家系として再び皇位を継ぐ」という悲願を、ようやく政治制度として定着させたのです。

しかし、伏見院が築いた交互の安定は、のちに大覚寺統の異端児・後醍醐天皇 にとって、破壊すべき「巨大な壁」となり、さらに時代を揺るがす激流へとつながっていきます。

伏見院が守り抜いた持明院統の誇りが強ければ強いほど、それに反発する後醍醐天皇のエネルギーもまた、時代を飲み込む激流へと変わっていくことになるのです。

静かな退場

そして、1317年。
伏見院は出家し、その生涯を閉じました。
激動の皇統争いのただ中で、伏見天皇は暴力にも政治闘争にも頼らず、文化と秩序によって「持明院統の誇り」を守り抜いた天皇でした。

承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場

承久の乱で大きく揺らいだ王権の行方。
このシリーズでは、その波の中を生きた11人の天皇たちの物語を辿ってきました。

時に、争いを拒み、
時に、理想に燃え、
時に、運命に翻弄され、
時に、不遇に耐え、
祈りにすがり、
そして文化へ光を求めた

武家政権の台頭という圧倒的な時代の流れに押し流されながらも、それぞれの場所で「天皇とは何か」を静かに問い続けていたように思えます。

長子の正統
次子の理想
兄弟の分裂
院政の葛藤
そして、絶えず揺れ動く皇位継承

そのすべてが積み重なり、やがて日本史を二つの王権へと引き裂く「南北朝の動乱」へとつながっていきました。
しかし、どれほど時代が変わろうとも、この十一人の天皇が歩んだ歳月は、まぎれもなく日本の政治史そのものであり、王権とは何か、国家とは何かを映し出しています。

そして、ここにて「天皇たちの運命劇場」は幕を下ろします。

明日からは、新シリーズ

「執権という舞台 〜 時政・時頼・時宗の物語 〜」
天皇たちが玉座の上で苦悩し、皇統が揺れ、祈りや文化へと活路を求めていたその時。

もうひとつの場所で、粛々と、しかし確実に日本という仕組みを支えていた者たちがいました。

それが鎌倉幕府の執権・北条氏です。

朝廷が動揺し、皇統が二つへ割れ、天皇たちが翻弄され続ける裏側で。
武家政権はずっと、「国家をどう守るか」という重い問いに向き合い続けていました。

新シリーズ「執権という舞台 〜 時政・時頼・時宗の物語 〜」では3人の執権、北条時政・北条時頼・北条時宗を通じて、

国家とは何か
権力とは何か
守るとはどういうことか

その答えを探す物語へ、皆さまをご招待します。

1138-1215を生きた武士(鎌倉幕府初代執権)。伊豆の在地武士として生まれながら、流人であった源頼朝をいち早く支え、やがて鎌倉幕府創業の中心人物となる。頼朝の死後、幕府は御家人たちの思惑が複雑に絡み合う混乱期へと突入する中で、武家政権の枠組みを整えるために「十三人の合議制」を軸とした集団統治体制の中核として関与。比企能員との政争を制して比企一族を排除し、源頼家・実朝兄弟の擁立を通じて、北条氏が幕府の中枢を担う体制を着実に築き上げた。「武家が自らの力で国を治める政治」を現実のものとするための、冷徹な現実感覚と知略によって、のちに「執権政治」と呼ばれる武家政権の骨格と構造の原型を、一代で描き出した演出者である。いらすとすてーしょんでは出生地を静岡県とさせていただきます。
【政治の部屋|北条時政】混沌を組み替え、武家政権の舞台を演出した「構」の執権

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

政治の部屋
1846-1866を生きた徳川十四代将軍。紀州藩主・徳川斉順の子として、父の死から16日後に江戸の紀州藩邸で生まれ、満2歳で紀州藩主を継いだ。1858年、将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派の支持を受け、満12歳で第14代将軍に就任する。1862年には孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎え、朝廷と幕府の融和を図る公武合体を象徴する存在となった。翌年には家光以来およそ230年ぶりとなる上洛を果たし、朝廷からの強い攘夷要求を受けて幕府として攘夷実行を約束する。続く上洛では将軍として初めて海路を用いるなど、朝廷との関係維持に奔走した。勝海舟の進言を容れて神戸海軍操練所の設置を認めるなど、新しい時代への理解も示している。1866年、第二次長州征伐のため滞在していた大坂城で病に倒れ、満20歳で死去した。和宮との仲は睦まじく、側室を置かなかったと伝えられる。家茂の死を知った勝海舟は日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記した。若くして朝廷と幕府の狭間に立ち続け、その調停に心身を削ったその生涯は、まさに「公武合体に若き命を賭す」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家茂】公武合体に若き命を賭すNew!!
政治の部屋
1824-1858を生きた徳川十三代将軍。文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城西の丸に生まれる。多くの兄弟が幼くして亡くなるなかで唯一成人し、将軍後継者となった。幼少から病弱であったため、その器量や健康状態を不安視する声もあったが、老中・阿部正弘らの支持を受けて世子の地位を固めた。1853年、黒船来航の混乱のさなかに家慶が死去すると、同年中に第13代将軍に就任する。翌年には日米和親条約が締結されたが、家定自身は病状が重く、幕政は阿部正弘、ついで堀田正睦らが主導した。御台所に天璋院(篤姫)を迎えるも実子には恵まれず、将軍継嗣をめぐって井伊直弼ら南紀派の推す徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が激しく対立する。1858年、家定は諸大名を前に慶福を後継者とする意向を示し、続いて一橋派の処分を発表した。これは病弱で政治的発言の少なかった家定が、自ら後継問題について明確な意思を示した数少ない場面であった。その翌日、34歳で死去する。病弱の身で黒船来航後の国難と将軍継嗣問題の渦中に置かれたその生涯は、まさに「病弱の将軍として継嗣問題に揺れる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家定】病弱の将軍として継嗣問題に揺れるNew!!
政治の部屋
1793-1853を生きた徳川十二代将軍。寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる。兄の早世により将軍後継者となり、1837年、44歳で第12代将軍に就任したが、実権はなお大御所・家斉が握り続けていた。家斉の死後、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を進めるものの、諸方面の反発を受けて挫折。その後は阿部正弘を重用し、海防強化や政務改革に取り組んだ。家臣の進言に「そうせい」と応じることが多かったことから「そうせい様」と渾名された一方、人材登用では優れた眼識を発揮した。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、家慶はすでに病床にあり、阿部正弘の報告に「斉昭と相談せよ」と述べるにとどまった。それから間もない同年、家慶は60歳で死去し、子の家定が跡を継いだ。徳川の泰平が終わりを迎え、幕末への扉が開かれる歴史の転換点に立ち会ったその生涯は、まさに「黒船来航に立ち会う将軍」であった。
【政治の部屋|徳川家慶】黒船来航に立ち会う将軍New!!
13東京都
1773-1841を生きた徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家斉】50年の治世で幕府を緩ませるNew!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ