大名。徳川家康の十一男として伏見城に生まれ、御三家の中では最も後に家を興した立場ながら、常陸水戸藩二十八万石を与えられ、水戸徳川家の初代藩主となる。他の御三家(尾張・紀伊)に比べて石高では及ばないものの、江戸に近い水戸の地を任されたことは、将軍家にとって東国における重要な備えとしての意味を持っていた。頼房は水戸城下の整備や藩政の基盤づくりに力を注ぎ、御三家の一角としての体制を確立している。また学問を重んじる家風を育み、後を継いだ子・光圀による『大日本史』編纂事業など、水戸藩が学問の藩として発展していく礎を築いた。将軍家の一門として江戸を支える東国の要に配され、水戸の地に徳川の未来を託したその生涯は、まさに「水戸に将軍家の未来を託す」大名であった。
江戸時代編.22
シリーズ:将軍家を支えた血脈 ~御三家、産声を上げる~ 第3回
徳川頼房
Tokugawa Yorifusa
水戸に将軍家の未来を託す
Information
教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

「水戸に将軍家の未来を託す」徳川頼房の物語
どのような時代を生きたのか
徳川頼房が生きた十七世紀は、大坂の陣によって豊臣家が滅び、徳川の天下が確立された後、その支配体制を、二代・秀忠、三代・家光、 四代・家綱へと、引き継いでいく幕府権力の確立期でした。頼房は1603年、家康の十一男として、兄・頼宣と同じく、側室・養珠院(お万の方)との間に生まれます。幼くして下総国下妻を与えられた後、1609年、兄・頼宣が駿府から紀伊へ移ったことに伴い、常陸国水戸を新たに与えられ、水戸藩二十五万石余りの藩主となりました。
家康の子どもたちの中でも、とりわけ末に近い頼房は、兄たちが西国や東海道の要地に配される中、江戸に近い水戸の地を任されることになります。水戸は、江戸から見て東北方面への玄関口にあたる土地であり、将軍家の膝元を固めるという意味で、独自の重要性を持つ所領でした。頼房はこの地に入ることで、水戸徳川家の初代として、新たな歴史を歩み始めることになるのです。
この人物が放った「産声」とは
頼房が上げた産声、それは、「将軍家一門として、江戸に最も近い水戸の地に、徳川の未来を託す備えを築き上げる」という産声でした。
兄・義直や頼宣が、東海道や南海道という、外様大名への牽制を意識した要地に配されたのに対し、頼房が任された水戸は、江戸により近く、将軍家の本拠そのものを、背後から支える位置にありました。頼房が藩主となった当時、まだ十歳に満たない幼少であり、実際の藩政は、附家老である中山信吉らによって、支えられていたと考えられています。
水戸藩は、尾張・紀伊の両藩に比べると、石高の上ではやや小規模でしたが、江戸に近いという地理的な条件から、将軍家を支える重要な一門として、特別な位置を占めていました。後に御三家は、将軍家に後継者がいない場合の、有力な継承候補として認識されるようになりますが、その役割分担が当初からどこまで明確に制度化・意識されていたかについては、後世の整理による部分も大きく、すべてを頼房存命当時の構想として、断定することは難しいとされています。
頼房が水戸の地で上げたこの産声は、やがて水戸徳川家という、独自の存在感を放つ藩へと、育っていくことになるのです。
この人物が示した「支え方」とは
頼房が示した支え方とは、「江戸に近い水戸の地で藩政の基盤を整え、将軍家を支える一門としての備えを固めること」でした。
頼房は水戸藩の統治にあたり、検地や新田開発、城下町の整備など、藩政の基礎固めに力を注ぎました。また頼房は、将軍家一門としての立場から、参勤交代などの江戸出府の機会も多く、のちの「定府(じょうふ:藩主が常に江戸に詰める形態)」の原型となるように、江戸城内において、将軍を身近で支える役割も、担っていたと伝えられています。一方で頼房の人物像については、史料によって伝えられ方に幅があり、その気性や具体的な統治の実態について、すべてが明確に判明しているわけではありません。
頼房が水戸藩の基盤として築いたものは、後に子・光圀の代において、学問による藩の発展という、新たな形へと引き継がれていくことになります。華やかな武功や広大な石高によってではなく、江戸近くの地を堅実に治め続けることによって、将軍家を支える。それこそが、頼房が貫いた、水戸における支え方だったのです。
その生涯は何を残したのか
1661年、徳川頼房は五十八歳でその生涯を閉じました。
頼房が築いた水戸徳川家は、その後も御三家の一つとして、長く存続していくことになります。そして頼房の子・光圀の代において、水戸藩は学問と歴史編纂という、他の御三家とは異なる独自の道を歩み、その名を広く知られる存在へと発展していきました。頼房の生涯が残したもの、それは江戸に最も近い水戸の地に、将軍家一門としての確かな基盤を築き上げたことにあります。尾張・紀伊の両家に比べれば、石高では小規模であったものの、その堅実な統治の積み重ねが、後の水戸藩の発展を支える土台となりました。
徳川頼房の生涯は、そのことを私たちに静かに教えてくれます。
まさに「水戸に将軍家の未来を託す」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、水戸光圀
徳川頼房が上げたのは、江戸に最も近い水戸の地における、徳川の未来を託す備えという産声でした。
しかし御三家が担った役割は、軍事や藩政の基盤づくりだけではありません。剣ではなく筆を取り、学問と歴史編纂によって、徳川の世を知の面から支えようとした人物がいます。
明日登場するのは、水戸光圀。
シリーズ「将軍家を支えた血脈 ~御三家、産声を上げる~」最終話となる第4回は、「学問と歴史編纂で幕府を照らす」水戸光圀の物語に迫ります。
徳川頼房にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「将軍家を支えた血脈 ~御三家、産声を上げる~」って!?
将軍家を支えた血脈御三家、産声を上げる
天下泰平の設計図、御三家という備え
関ヶ原に勝ち、大坂の陣で豊臣 を滅ぼし、徳川家康は天下をその手に収めました。
しかし、家康が見据えていたのは、単なる戦乱の終結だけではありません。将軍家の血筋を絶やさず、徳川の世を長く揺るぎないものとすることでした。
そのため家康は、自らの子どもたちを尾張・紀州・水戸という要の地へ配しました。
将軍家に万一のことがあれば、この家々から後継を迎える。後に「御三家」と呼ばれることになるこれらの家は、徳川政権の揺らぐことのない柱となっていきます。
本シリーズが描くのは、天下人の血を引きながら、将軍家を支える役割を担った四人の物語です。
「継ぐ者」ではなく「支える者」の系譜
御三家は、将軍家の分家であり、同時に幕府体制を支える最も有力な一門でもありました。
尾張の義直は、東海道の要衝にあって、将軍家の権威を天下に強く示しました。
紀州の頼宣は、西国への備えとして紀伊の地に根を張り、南海の要衝を固めました。
水戸の頼房は、江戸に近い東国の要地で藩政の基盤を整え、内に向けた備えの礎を築きます。
そして頼房の子、水戸光圀は、剣より筆を取り、学問と歴史編纂によって徳川の世を知の面から支えました。
なお、光圀に冠される「副将軍」という呼称は、正式な幕府の役職ではなく、後世の講談・創作によって広まったと考えられています。
本シリーズが伝えたいのは、「将軍になる」ことだけが、徳川の血を引く者の役割ではなかったという視点です。
継ぐことも、支えることもまた、血脈が果たした重要な使命でした。
大きな組織や体制が長く続くためには、トップ一人の才覚だけでは足りません。
将来の予期せぬ危機に備えた継承の仕組みを、あらかじめ整えておくこと。
のちに「御三家」と呼ばれるこの制度や言葉も、最初から存在したわけではなく、二代・秀忠、三代・家光の世を経て、徳川政権が泰平を目指す中で形成された重要な「備え」でした。
尾張、紀州、水戸。それぞれの地で産声を上げた血脈は、軍事・治政・学問と、異なる役割を果たしながら将軍家を支えていきます。
肩書きや家格の華やかさだけでなく、彼らがどのようにして藩の基盤を固め、徳川の世を揺るぎないものにしていったのか。
御三家の礎を築き、その歴史を創り上げた四人の物語に迫ります。
広告コーナー
世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。
ただいまの公開中のシリーズ

