大名。徳川家康の九男として生まれ、幼名を五郎太丸といった。傅役・平岩親吉に養育され、はじめ甲斐国甲府を与えられた後、尾張国清須から名古屋へ本拠を移し、尾張徳川家の初代藩主となる。家康は東海道の要衝である尾張に義直を配することで、西国大名への備えと将軍家の権威を東海地方に強く示そうとした。義直は名古屋城の築城と城下町の整備を進め、御三家筆頭にふさわしい藩体制の基盤を築き上げている。また儒学を篤く奨励し、朱子学者を招いて学問を振興するなど、武備だけでなく文治にも力を注いだ。将軍家の一門として、力と学問の両面から尾張の地に徳川の威光を刻み続けたその生涯は、まさに「尾張に将軍家の威光を刻む」大名であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を大阪府とさせていただきます。
江戸時代編.20
シリーズ:将軍家を支えた血脈 ~御三家、産声を上げる~ 第1回
徳川義直
Tokugawa Yoshinao
尾張に将軍家の威光を刻む
Information
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彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
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今回のシリーズ「将軍家を支えた血脈 ~御三家、産声を上げる~」って!?
将軍家を支えた血脈御三家、産声を上げる
天下泰平の設計図、御三家という備え
関ヶ原に勝ち、大坂の陣で豊臣 を滅ぼし、徳川家康は天下をその手に収めました。
しかし、家康が見据えていたのは、単なる戦乱の終結だけではありません。将軍家の血筋を絶やさず、徳川の世を長く揺るぎないものとすることでした。
そのため家康は、自らの子どもたちを尾張・紀州・水戸という要の地へ配しました。
将軍家に万一のことがあれば、この家々から後継を迎える。後に「御三家」と呼ばれることになるこれらの家は、徳川政権の揺らぐことのない柱となっていきます。
本シリーズが描くのは、天下人の血を引きながら、将軍家を支える役割を担った四人の物語です。
「継ぐ者」ではなく「支える者」の系譜
御三家は、将軍家の分家であり、同時に幕府体制を支える最も有力な一門でもありました。
尾張の義直は、東海道の要衝にあって、将軍家の権威を天下に強く示しました。
紀州の頼宣は、西国への備えとして紀伊の地に根を張り、南海の要衝を固めました。
水戸の頼房は、江戸に近い東国の要地で藩政の基盤を整え、内に向けた備えの礎を築きます。
そして頼房の子、水戸光圀は、剣より筆を取り、学問と歴史編纂によって徳川の世を知の面から支えました。
なお、光圀に冠される「副将軍」という呼称は、正式な幕府の役職ではなく、後世の講談・創作によって広まったと考えられています。
本シリーズが伝えたいのは、「将軍になる」ことだけが、徳川の血を引く者の役割ではなかったという視点です。
継ぐことも、支えることもまた、血脈が果たした重要な使命でした。
大きな組織や体制が長く続くためには、トップ一人の才覚だけでは足りません。
将来の予期せぬ危機に備えた継承の仕組みを、あらかじめ整えておくこと。
のちに「御三家」と呼ばれるこの制度や言葉も、最初から存在したわけではなく、二代・秀忠、三代・家光の世を経て、徳川政権が泰平を目指す中で形成された重要な「備え」でした。
尾張、紀州、水戸。それぞれの地で産声を上げた血脈は、軍事・治政・学問と、異なる役割を果たしながら将軍家を支えていきます。
肩書きや家格の華やかさだけでなく、彼らがどのようにして藩の基盤を固め、徳川の世を揺るぎないものにしていったのか。
御三家の礎を築き、その歴史を創り上げた四人の物語に迫ります。

「尾張に将軍家の威光を刻む」徳川義直の物語
どのような時代を生きたのか
徳川義直が生きた十七世紀前半は、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康↗が江戸幕府を開き、大坂の陣によって豊臣家を滅ぼし、徳川の天下がいよいよ確立されていく時代でした。義直は1601年、家康の九男として、側室・お亀の方(相応院)との間に生まれます。幼くして甲斐国、続いて尾張国清洲藩を与えられ、1610年、尾張・美濃を中心とする広大な所領、六十万石を超える大領の藩主となりました。同年、幕府は尾張の新たな拠点として、名古屋城の築城を開始します。これは西国大名も動員した、天下普請と呼ばれる大規模な事業であり、大坂の豊臣家をなお警戒する家康にとって、東海道の要衝に将軍家一門の拠点を築くという、重要な意味を持つ事業でもありました。
義直はまだ十歳前後の幼さでしたが、その双肩には、将軍家の一門として、西国への備えを担うという、大きな期待が既にかけられていたのです。
この人物が放った「産声」とは
義直が上げた産声、それは、「将軍家一門の筆頭として、東海道の要衝・尾張に徳川の権威を確立する」という産声でした。
1614年から始まる大坂の陣において、義直は名目上、軍を率いる立場にありました。しかし当時まだ十四歳ほどであった義直の実際の指揮は、成瀬正成をはじめとする、経験豊富な附家老たちによって支えられていたと考えられています。この点は、義直に限らず、若くして陣頭に立った家康の子どもたちに共通する事情であり、実戦の采配そのものよりも、将軍家一門としてその場に立つこと自体に、大きな意味があったとされています。
大坂の陣によって豊臣家が滅びると、義直が治める尾張は、名実ともに東海道随一の要地として、徳川政権を支える重要な拠点へと育っていくことになります。家康がこの地に生み出そうとしたのは、単なる一大名としての領国ではなく、将軍家の血を引く者が、その権威をもって東海道を鎮める、新しい柱そのものでした。
義直が尾張の地で上げたこの産声は、やがて名古屋という土地に、将軍家の威光を刻み込んでいくことになるのです。
この人物が示した「支え方」とは
義直が示した支え方とは、「武による守りだけでなく、学問を重んじることで、藩の内実を固めること」でした。
義直は儒学、とりわけ朱子学に深い関心を寄せ、学者を招いて講義を受けるなど、学問を重んじる姿勢で知られていました。これは、単に個人の教養にとどまらず、戦国の気風がなお残る家臣団を、泰平の世にふさわしい統治のあり方へと導こうとする、藩政運営の一環でもあったと考えられています。
なお、義直がどのような学問的業績を、具体的に残したかについては、史料によって伝えられ方に幅があり、後世の顕彰によって、その学問への貢献が誇張されている可能性も指摘されています。
義直はまた、名古屋城を中心とする城下町の整備にも力を注ぎ、尾張藩の行政機構や財政基盤を、着実に築き上げていきました。武力による威圧だけでなく、学問と統治の充実によって、将軍家一門としての重みを示す。それこそが、義直が貫いた、尾張における支え方だったのです。
その生涯は何を残したのか
1650年、徳川義直は五十歳でその生涯を閉じました。
義直が築いた尾張藩は、その後、尾張徳川家として代々受け継がれ、御三家の筆頭として、長きにわたり将軍家を支え続けることになります。義直が礎を築いた尾張藩の学問尊重の気風は、後の藩政にも受け継がれ、尾張という地に、独自の文化的な厚みをもたらしていきました。義直の生涯が残したもの、それは単に広大な所領を治めたことではありません。将軍家一門としての権威を、東海道の要衝という土地に、確かな形で根付かせたことにありました。
徳川義直の生涯は、そのことを私たちに静かに教えてくれます。
まさに「尾張に将軍家の威光を刻む」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、徳川頼宣
徳川義直が上げたのは、東海道の要衝・尾張における、将軍家の権威確立という産声でした。
しかし御三家に託された使命は、一つではありません。西国ににらみを利かせる、南海の要衝にも、将軍家の血を引く者が配されることになります。
明日登場するのは、徳川頼宣。
第2回は、「南海の要を守る初代」徳川頼宣の物語に迫ります。
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