榊原康政





Sakakibara Yasumasa (1548-1606)

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榊原康政 をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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榊原康政
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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館長

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シューちゃん

シリーズ「江戸を動かした参謀たち」第2話目は、榊原康政が登場

館長

本シリーズは、「人と組織の動かし方」にスポットライトを当てた六人の物語です

こんな背景

シリーズ:江戸を動かした参謀たち

第2回:榊原康政〜諫言を貫いた忠臣〜

今回のシリーズ:「江戸を動かした参謀たち」は…
天下は、誰が動かしていたのか

前シリーズ「非戦の統治者たち 」 では、
作法によって人を整えた者、
美によって価値観を変えた者、
思想によって争いを防いだ者、
そして、信念によって人々を導いた者たちを追いました。

そこには、
武力だけでは説明できない、
もう一つの歴史の動かし方がありました。

そして、天下人は一人でも、
政権は、その一人では動きません。

天下統一の後に訪れた江戸時代も、
例外はありません。

そこで、新たな問いが生まれます。

その問いとは、

「徳川家康はいったい誰に支えられていたのか。」

「勝つこと」と「治めること」

戦国時代には、
強い武将が数多く存在しました。

しかし、
戦に勝つことと、
国家を治めることは別の能力です。

関ヶ原に勝っただけでは、
二百六十年以上続く幕府は生まれません。

必要だったのは、
人をまとめる者。
組織を整える者。
後継者を育てる者。
財政を支える者。
そして、主君に苦言を呈する者でした。

徳川政権の強さは、
家康一人の才能だけではなく、
それを支える中枢の人材によって支えられていたのです。

表に出ない実力者たち

本シリーズで扱うのは、
将軍でもなければ、
天下人でもありません。

今回登場するのは、
主君の隣で考え、
組織を支え、
制度を動かした実務家たちです。

彼らは派手な功績で、
歴史に名を残したわけではありません。

しかし、
組織が迷った時には方向を示し、
危機の時には秩序を守り、
次の世代へと政権をつないでいきました。

言い換えれば、彼らがいなければ、
徳川幕府はこれほど長く続かなかったかもしれません。

戦国から江戸へ

この六人が生きたのは、
天下取りの時代から、
天下を維持する時代へと移り変わる転換期。

求められたのは、
武勇だけではありません。

組織を支え、人を育て、
仕組みを整える力でした。

本シリーズでは、
その力を発揮した六人にスポットライトを当てます。

「江戸を動かした参謀たち」
第1回 酒井忠次

徳川を支えた総参謀

1
第2回 榊原康政

諫言を貫いた忠臣

2
第3回 本多重次

規律を徹した実務家

3
第4回 平岩親吉

後継者を育てた参謀

4
第5回 奥平信昌

徳川を支えた女婿

5
第6回 大久保長安

財政を動かした策士

6
問われているのは「組織を支える力」

優れた組織、指導者とは何でしょうか。

そして、長く続く仕組みは、
どのようにして生み出されるのでしょうか。

歴史は英雄によって動くように見えます。

しかし実際には、その背後で考え、
支え、整え続けた人々がいます。

本シリーズが見つめるのは、
天下人ではなく、
天下人を支えた者たちです。

それは、戦国の勝者がどのようにして、
江戸という巨大な組織を築き上げたのかを探る物語でもあります。

どのような時代を生きたのか

榊原康政が生きたのは、
徳川家康が一地方の戦国大名から、
天下人への道を駆け上がっていく時代でした。

各地では大名同士の激しい抗争が続き、
主君の一つの判断が、
家や家臣団の命運を左右する時代です。

康政は三河に生まれ、
若くして家康に仕えました。

やがて徳川四天王の一人に数えられるようになり、
本多忠勝と並ぶ武勇で、
広くその名を知られるようになります。

三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、
そして豊臣秀吉を追い詰めた小牧・長久手の戦い。

徳川家の存亡を分ける数々の戦場で、
康政は常に最前線に立ちました。

しかし、康政が歴史に名を残した理由は、
単なる勇将だったからではありません。

家康が大大名へと成長し、
家臣団が巨大化していく中で、
康政は組織を正しい方向へ導く、
もう一つの重要な役割を果たすことになります。

それが「諫言(かんげん)」でした。

何によって家康と組織を支えたのか

康政が主君と組織を支えたのは、
「正しいと思うことを恐れずに言う勇気」
にありました。

多くの組織では、規模が大きくなるほど、
主君や指導者に異論を唱える者が少なくなります。
権力に近づけば近づくほど、ただ迎合する方が、
保身としては安全だからです。

しかし、康政は違いました。
家康に絶対の忠誠を誓いながらも、
ただ盲従するだけの家臣にはなりませんでした。

必要だと判断すれば、
主君の逆鱗に触れることも恐れず、
「一歩間違えれば手討ち」という極限の状況でも、
率直に意見を述べたのです。

例えば、関ヶ原の戦い。

嫡男・秀忠が戦場への到着に遅れたことで、
家康は激しく怒ったと伝えられています。

その際、康政は秀忠を擁護し、
主君の怒りを和らげるために奔走したとされます。

真偽の細部には諸説あるものの、
この逸話は康政が家中の危機に際して、
あえて苦言を呈する役割を担っていたことを象徴しています。

それは単なる反抗でも、
自己顕示でもありません。

徳川家という組織を、
感情の暴走から守るための文字通りの決死の苦言でした。

康政にとっての忠義とは、
主君の機嫌を取ることではありません。

「主君が誤る可能性まで含めて、
我が身を盾にして支えること」だったのです。

だからこそ家康も、
康政の厳しい言葉に耳を傾けました。

信頼があるから、命を懸けて諫言できる。

そして、その諫言を受け止めるからこそ、
さらに信頼される。

康政と家康の関係は、
馴れ合いではない、
真の参謀と主君の理想形を示していました。

この参謀が示した組織運営のあり方は

康政が示した組織運営のあり方、
それは「忠誠と迎合は違う」
ということでした。

組織が肥大化し、
権力が一箇所に集中したとき、
最も恐れるべきは、
内部から反対意見が消え去ることです。

誰も異論を挟まなくなった組織は、
一見すると強固な結束を保っているように見えて、
その実、トップの盲点や致命的な崩壊の兆候に、
誰一人として気づけなくなる脆さを孕みます。

だからこそ組織には、
耳の痛い正論をあえて突きつけられる、
「異端の眼」が不可欠なのです。

もちろん、私利私欲や、
ただの感情論で批判を繰り返すだけでは、
組織の和を乱す不平分子に過ぎません。

康政の言葉が家康の胸を深く穿ったのは、
それがどこまでも「徳川の存続」という大義に基づいた、
無私無欲の苦言であったからに他なりません。

そして何より、康政には、
言葉の重みを裏付ける圧倒的な「実績」がありました。

戦場に臨めば誰よりも先に立ち、
数々の死線を最前線で切り開いてきた。

その誰よりも組織に貢献してきた男が、
平時にはあえて嫌われ役を買って出て苦言を呈するのです。

命を懸けて主君と組織を支え抜いてきたという、
揺るぎない覚悟と実践があったからこそ、
家康も康政の言葉を、
「単なる反発」として退けることができず、
重い決断の天秤にかけざるを得なかったのです。

その仕事は何を変えたのか

康政の存在は、
徳川家臣団の「組織文化」そのものを守り抜きました。

徳川家が強かった理由の一つは、
有能な家臣が必要に応じて、
主君に意見を述べることのできる、
組織文化を持っていた点にありました。

酒井忠次が全体を調整する中で、
康政は組織の良心として機能し続けたのです。

もし家臣たちが主君への迎合だけを選んでいたなら、
徳川家は戦国の荒波を乗り越えられなかったかもしれません。

康政が残した最大の功績は、
戦場での武功だけではありません。

組織において、
「言うべきことを言う勇気」
の価値を身をもって示したことでした。

それは江戸幕府成立後の統治体制にも受け継がれ、
二百六十年続く徳川政権の安定を、
内側から支える重要な土台となっていったのです。

明日は、本多重次

榊原康政が示したのは、
主君に迎合せず、組織のために正論を貫く、
「諫言の力」でした。

しかし、どれほど優れた組織であっても、
意見を交わすだけでは機能しません。

組織を動かすためには、
一度決められたことを徹底し、
厳格に秩序を維持する人材も必要です。

次に登場するのは、
徳川家の規律を鬼となって支え、
冷徹な実務によって組織の骨組みを作った男。

第3回は、
「規律を徹した実務家」本多重次の物語に迫ります。

1529-1596を生きた武将。徳川家康の譜代家臣として若き頃から仕え、三河時代から徳川家の発展を支え続けた重臣。戦場では勇猛な武将として知られる一方、平時には厳格な規律と実務能力によって家中を支えた。家康の命令には一切の妥協を許さず、公私を峻別する姿勢で組織の統制維持に大きく貢献したことで知られる。陣中から妻へ送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の簡潔な書状は、実務を重んじるその人柄を象徴する逸話として現在まで語り継がれている。華やかな武功や権謀術数ではなく、規律・責任・実行力によって組織を支えたその姿は、徳川家の成長を下支えした「実務家」の典型であり、「規律を徹した実務家」と呼ぶにふさわしいものであった。
【政治の部屋|本多重次】安土桃山時代編.35

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13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!
13東京都
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現するNew!!
13東京都
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|牧野成貞】側用人として泰平を動かすNew!!

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