前シリーズ「非戦の統治者たち 」 では、
作法によって人を整えた者、
美によって価値観を変えた者、
思想によって争いを防いだ者、
そして、信念によって人々を導いた者たちを追いました。
そこには、
武力だけでは説明できない、
もう一つの歴史の動かし方がありました。
そして、天下人は一人でも、
政権は、その一人では動きません。
天下統一の後に訪れた江戸時代も、
例外はありません。
そこで、新たな問いが生まれます。
その問いとは、
「徳川家康はいったい誰に支えられていたのか。」
戦国時代には、
強い武将が数多く存在しました。
しかし、
戦に勝つことと、
国家を治めることは別の能力です。
関ヶ原に勝っただけでは、
二百六十年以上続く幕府は生まれません。
必要だったのは、
人をまとめる者。
組織を整える者。
後継者を育てる者。
財政を支える者。
そして、主君に苦言を呈する者でした。
徳川政権の強さは、
家康一人の才能だけではなく、
それを支える中枢の人材によって支えられていたのです。
本シリーズで扱うのは、
将軍でもなければ、
天下人でもありません。
今回登場するのは、
主君の隣で考え、
組織を支え、
制度を動かした実務家たちです。
彼らは派手な功績で、
歴史に名を残したわけではありません。
しかし、
組織が迷った時には方向を示し、
危機の時には秩序を守り、
次の世代へと政権をつないでいきました。
言い換えれば、彼らがいなければ、
徳川幕府はこれほど長く続かなかったかもしれません。
この六人が生きたのは、
天下取りの時代から、
天下を維持する時代へと移り変わる転換期。
求められたのは、
武勇だけではありません。
組織を支え、人を育て、
仕組みを整える力でした。
本シリーズでは、
その力を発揮した六人にスポットライトを当てます。
優れた組織、指導者とは何でしょうか。
そして、長く続く仕組みは、
どのようにして生み出されるのでしょうか。
歴史は英雄によって動くように見えます。
しかし実際には、その背後で考え、
支え、整え続けた人々がいます。
本シリーズが見つめるのは、
天下人ではなく、
天下人を支えた者たちです。
それは、戦国の勝者がどのようにして、
江戸という巨大な組織を築き上げたのかを探る物語でもあります。
榊原康政が生きたのは、
徳川家康が一地方の戦国大名から、
天下人への道を駆け上がっていく時代でした。
各地では大名同士の激しい抗争が続き、
主君の一つの判断が、
家や家臣団の命運を左右する時代です。
康政は三河に生まれ、
若くして家康に仕えました。
やがて徳川四天王の一人に数えられるようになり、
本多忠勝と並ぶ武勇で、
広くその名を知られるようになります。
三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、
そして豊臣秀吉を追い詰めた小牧・長久手の戦い。
徳川家の存亡を分ける数々の戦場で、
康政は常に最前線に立ちました。
しかし、康政が歴史に名を残した理由は、
単なる勇将だったからではありません。
家康が大大名へと成長し、
家臣団が巨大化していく中で、
康政は組織を正しい方向へ導く、
もう一つの重要な役割を果たすことになります。
それが「諫言(かんげん)」でした。
康政が主君と組織を支えたのは、
「正しいと思うことを恐れずに言う勇気」
にありました。
多くの組織では、規模が大きくなるほど、
主君や指導者に異論を唱える者が少なくなります。
権力に近づけば近づくほど、ただ迎合する方が、
保身としては安全だからです。
しかし、康政は違いました。
家康に絶対の忠誠を誓いながらも、
ただ盲従するだけの家臣にはなりませんでした。
必要だと判断すれば、
主君の逆鱗に触れることも恐れず、
「一歩間違えれば手討ち」という極限の状況でも、
率直に意見を述べたのです。
例えば、関ヶ原の戦い。
嫡男・秀忠が戦場への到着に遅れたことで、
家康は激しく怒ったと伝えられています。
その際、康政は秀忠を擁護し、
主君の怒りを和らげるために奔走したとされます。
真偽の細部には諸説あるものの、
この逸話は康政が家中の危機に際して、
あえて苦言を呈する役割を担っていたことを象徴しています。
それは単なる反抗でも、
自己顕示でもありません。
徳川家という組織を、
感情の暴走から守るための文字通りの決死の苦言でした。
康政にとっての忠義とは、
主君の機嫌を取ることではありません。
「主君が誤る可能性まで含めて、
我が身を盾にして支えること」だったのです。
だからこそ家康も、
康政の厳しい言葉に耳を傾けました。
信頼があるから、命を懸けて諫言できる。
そして、その諫言を受け止めるからこそ、
さらに信頼される。
康政と家康の関係は、
馴れ合いではない、
真の参謀と主君の理想形を示していました。
康政が示した組織運営のあり方、
それは「忠誠と迎合は違う」
ということでした。
組織が肥大化し、
権力が一箇所に集中したとき、
最も恐れるべきは、
内部から反対意見が消え去ることです。
誰も異論を挟まなくなった組織は、
一見すると強固な結束を保っているように見えて、
その実、トップの盲点や致命的な崩壊の兆候に、
誰一人として気づけなくなる脆さを孕みます。
だからこそ組織には、
耳の痛い正論をあえて突きつけられる、
「異端の眼」が不可欠なのです。
もちろん、私利私欲や、
ただの感情論で批判を繰り返すだけでは、
組織の和を乱す不平分子に過ぎません。
康政の言葉が家康の胸を深く穿ったのは、
それがどこまでも「徳川の存続」という大義に基づいた、
無私無欲の苦言であったからに他なりません。
そして何より、康政には、
言葉の重みを裏付ける圧倒的な「実績」がありました。
戦場に臨めば誰よりも先に立ち、
数々の死線を最前線で切り開いてきた。
その誰よりも組織に貢献してきた男が、
平時にはあえて嫌われ役を買って出て苦言を呈するのです。
命を懸けて主君と組織を支え抜いてきたという、
揺るぎない覚悟と実践があったからこそ、
家康も康政の言葉を、
「単なる反発」として退けることができず、
重い決断の天秤にかけざるを得なかったのです。
康政の存在は、
徳川家臣団の「組織文化」そのものを守り抜きました。
徳川家が強かった理由の一つは、
有能な家臣が必要に応じて、
主君に意見を述べることのできる、
組織文化を持っていた点にありました。
酒井忠次が全体を調整する中で、
康政は組織の良心として機能し続けたのです。
もし家臣たちが主君への迎合だけを選んでいたなら、
徳川家は戦国の荒波を乗り越えられなかったかもしれません。
康政が残した最大の功績は、
戦場での武功だけではありません。
組織において、
「言うべきことを言う勇気」
の価値を身をもって示したことでした。
それは江戸幕府成立後の統治体制にも受け継がれ、
二百六十年続く徳川政権の安定を、
内側から支える重要な土台となっていったのです。
榊原康政が示したのは、
主君に迎合せず、組織のために正論を貫く、
「諫言の力」でした。
しかし、どれほど優れた組織であっても、
意見を交わすだけでは機能しません。
組織を動かすためには、
一度決められたことを徹底し、
厳格に秩序を維持する人材も必要です。
次に登場するのは、
徳川家の規律を鬼となって支え、
冷徹な実務によって組織の骨組みを作った男。
第3回は、
「規律を徹した実務家」本多重次の物語に迫ります。