足利義詮





Ashikaga Yoshiakira (1330-1367)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょんへ
こちらのページでは室町時代に活躍した政治家

足利義詮をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

足利義詮
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より室町時代に活躍した政治家として足利義詮イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

足利義詮って

館長

足利義詮 にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

シリーズ「南北朝の戦い ― その帰結―」第5回目は、足利義詮が登場!

館長

今シリーズは、無垢な理念の時代が終わったあとに始まった、
「秩序の時代」を描く6名の物語です

こんな背景

シリーズ:南北朝の戦い ― その帰結 ―

第5回: 足利義詮〜分裂を日常の政治として定着させた二代目〜

今回のシリーズ:「南北朝の戦い ― その帰結 ―」は…
戦いのあとに、何が残ったのか

王権は分裂し、
制度は割れたまま動き続け、
日本社会は武力と忠誠によって再編されていきました。

南北朝の戦いは、
どちらが「正しかったか」を決める戦争ではありませんでした。

それぞれが「正統」を掲げ、
それぞれが引くに引けぬ信念を抱いた結果、
戦いが日常として定着してしまった時代だったのです。

しかし、戦いが続いたあとに、
歴史は必ず「何か」を残します。

それは、誰かが夢見た理想でも、
血筋が証明する正統でもありません。

争い続けた果てに、
誰もが否定できなくなった

「現実としての秩序」

でした。

前回のシリーズ
「南北朝の戦い ― 戦場・地方・王権中枢の三つの視点 ― 」 では、
なぜ分裂が生まれ、
なぜ終わることができなかったのかという、
「構造」を描いてきました。

今回のシリーズ
「南北朝の戦い・その帰結 」が問うのは、
そのさらに先にある景色です。

戦いの最中に、
日本社会には何が残り、
どのような政治が立ち上がっていったのか。

ここに登場するのは、
理念のために戦った人々だけではありません。

正統に殉じ、敗れ去った者。
理想を体現しきって散った者。
戦争を終わらせることはできずとも、
それを「管理」し、「継承」し、
やがて「統治」へと変えていった者

たちです。

彼らの選択は、
南北朝という戦争をすぐには終わらせませんでした。

しかし、
戦争のあとの過酷な世界を生き抜くための、
「新しい仕組み」を、
確かに形づくっていきました。

このシリーズで描くのは、
華やかな英雄譚でも、
敗者の涙が誘う美談でもありません。

「戦争が生み出してしまった現実」

そして、その現実と折り合いをつけながら、
泥沼の中を這うようにして、
秩序を模索した人々の記録です。

「南北朝の戦い ― その帰結 ―」
第1回 新田義貞

正統という理念に殉じた武者

1
第2回 楠木正成

理想を戦場で体現した知略の英雄

2
第3回 足利尊氏

混乱の中で現実の枠組みを選んだ創始者

3
第4回 高 師直

戦争をシステムとして管理した合理主義者

4
第5回 足利義詮

分裂を日常の政治として定着させた二代目

5
第6回 細川頼之

動乱を統治と管理の政治へと昇華させた完結者

6

ここから描く、
無垢な理念の時代が終わったあとに始まった、
冷徹で、しかし強靭な、
「秩序の時代」の物語をお楽しみください。

分裂が「当たり前」になった時代に育った将軍

足利義詮の父は、
言わずもがな足利尊氏です。

尊氏が室町幕府を開いたのは、
戦争に勝利したからではありません。

南北朝の戦いが終われないという現実の中で、
それでも社会を崩壊させないために、
武士が従うべき政治の拠点を作る必要があったからです。

義詮は、
その幕府がすでに存在する世界に生まれました。

生まれたときから、
南北朝の分裂は非常事態ではなく、
政治の前提として存在していたのです。

義詮にとって、
王権が一つである世界も、
戦争が一時的な異常である政治も、
もはや前提ではありませんでした。

京都で並び立つ「将軍」と「天皇」

義詮の時代、
京都には北朝の天皇、
後光厳天皇がいました。

一方、吉野には、
南朝が存在し続けています。

正統は割れたまま。

それでも都では、
天皇と将軍が並び立ち、
政治を止めることが許されない。

義詮が向き合っていたのは、
正統を決することではなく、
正統が割れたままでも国家を機能させることでした。

後光厳天皇の存在は、
幕府が単なる武士政権ではなく、
朝廷儀礼と王権を抱え込んだ政治体制であることを、
日々突きつけるものでした。

義詮は、
天皇を頂点に据えながら、
将軍として政治を回し続けるという、
極めて繊細で危うい均衡の政治を担います。

創始でも改革でもない役割を担う

父・尊氏が行ったのは、
分裂という現実を引き受け、
新たな政権の枠組みを作ることでした。

高 師直が担ったのは、
その枠組みの内側で、
戦争と政治を管理し、制度として動かすことでした。

義詮に託された役割は、
それらを特別な非常時対応ではなく、
日常の政治として持続させること。

義詮の治世は、
分裂を終わらせる時代ではありません。

しかし、分裂を「例外」ではなく、
政治の前提として担った時代でした。

日常を止めない将軍

南朝との対立は続き、
戦争が終わる兆しは見えません。

それでも義詮は、
統治機構を止めませんでした。

天皇が二人いる。
正統が一つに定まらない。
それでも、

人事を行い、
政務を執行し、
幕府としての判断を積み重ねていく。

将軍とは、
戦場で勝利を指揮する存在である以前に、
崩れかけた日常を、
日常として維持し続ける存在である。

義詮は、
将軍という地位を、
そのような「統治の責任者」へと、
粛々と、しかし着実に変貌させていきます。

帰結としての二代目将軍

足利義詮は、
戦争を終わらせることはありませんでした。

しかし、
戦争が続いてしまった世界を、
政治として成立させ、
次代へと引き渡した将軍でした。

その歩みは、
南北朝の戦いという「帰結」として生まれた幕府が、
武力の産物にとどまらず、

天皇と将軍が併存する制度として定着していく過程

そのものを象徴しています。

明日は、細川頼之

尊氏が枠組みを作り、
師直が戦争を管理し、
義詮がそれを日常の政治として定着させました。

次に描くのは、
この分裂秩序を、
「統治」へと昇華させた管領※です。

明日は、
「動乱を統治と管理の政治へと昇華させた完結者」細川頼之の物語です。
※将軍に次ぐ最高の役職

1329-1392を生きた武将。足利義詮・義満の二代にわたり管領として幕政を主導し、南北朝の戦いが生み出した分裂秩序を、実際の「統治」へと転換させる。足利尊氏が政権の枠組みを作り、高師直が戦争を管理し、義詮が分裂を前提に政権を継承したのに対し、頼之が担ったのは、戦争状態を常態としない政治へと移行させる役割であった。南朝勢力との対立が続く中でも、守護権力の調整や法整備を進め、武力のみに依存しない政権運営を模索した。その政治姿勢は、分裂したままでも国家を安定させる道を具体的に示し、南北朝の戦いを「続く内乱」から「収束可能な政治課題」へと変質させていく。頼之は、動乱の帰結として生まれた秩序を、初めて現実の統治として成立させた存在である。南北朝の戦いが「武力による決着」ではなく、「調整と管理によって政治が運営される時代」へと移行したことを、具体的な政務によって示した人物であった。
【政治の部屋|細川頼之】室町時代編.2

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

政治の部屋
1662-1712を生きた徳川六代将軍。甲府藩主・徳川綱重の長男として江戸に生まれるが、庶子であったため出生を伏され、家臣の養子「新見左近」として育てられた。後に甲府徳川家を継ぎ、五代綱吉に実子がなかったことから、家光の孫という血筋を背景に将軍後継者となり、1709年に四十八歳で六代将軍に就任。側用人・間部詮房や儒学者・新井白石を登用し、生類憐みの令を含む綱吉期の諸政策を見直すとともに、通貨・外交制度の改革を進め、「正徳の治」と呼ばれる幕政刷新に取り組んだ。在職はわずか三年余りだったが、その改革は後の幕政にも大きな影響を残した。まさに「正徳の治で泰平を紡ぎ直す」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家宣】正徳の治で泰平を紡ぎ直すNew!!
15新潟県
1670-1703を生きた武士。越後国新発田藩士・中山弥次右衛門の長男として生まれるが、幼くして両親を失い、父の浪人・死去を経て親族に引き取られながら育った。江戸へ出て堀内道場に入門すると剣才を発揮して免許皆伝となり、高田馬場の助太刀で武名を上げる。この活躍を見込んだ赤穂浅野家の堀部金丸から婿養子に望まれ、赤穂藩士に列した。1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となると、暴徒から赤穂藩邸を守り抜いた後、江戸急進派の中心人物として一貫して吉良討伐を主張し続ける。慎重な大石良雄としばしば対立しながらも、ついに主君の仇討ちの決行に至り、1702年12月の吉良邸討ち入りでは裏門から突入して奮戦した。討ち入り後は幕命により切腹し、主君と同じ泉岳寺に葬られている。忠義を貫くためには時に組織の慎重論に抗うことも辞さず、その信念を最後まで貫いたその生涯は、まさに「忠義と反逆の間に生きる」武士であった。
【政治の部屋|堀部武庸(安兵衛)】忠義と反逆の間に生きるNew!!
28兵庫県
1659-1703を生きた武士。播磨赤穂藩浅野家の筆頭家老の家に生まれ、若くして家督を継いだ。平時は「昼行燈」とも評されたが、1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となる非常事態に直面すると、その真価を発揮する。籠城か恭順かで揺れる藩論をまとめて赤穂城を無血開城し、藩札の換金や家臣への分配にも心を配って藩の混乱を最小限に抑えた。その後は浅野家再興を幕府へ働きかけながら、江戸急進派の逸る心を抑えつつ機をうかがい続ける。しかし再興の望みが絶たれると、ついに吉良討伐を決意した。1702年12月、四十七人の同志を率いて本所の吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らすと、幕命に従い泉岳寺で自刃した。忍耐と統率力によって家臣団をまとめ上げ、主君の死によって生じた裂け目に忠義という形で応えたその生涯は、まさに「忠義で裂け目に応える」武士であった。
【政治の部屋|大石良雄(内蔵助)】忠義で裂け目に応えるNew!!
13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ