老中。八代将軍・吉宗の孫として江戸の田安家に生まれる。のちに陸奥白河藩主・松平定邦の養子となり、藩政改革に取り組んだ。とりわけ天明の大飢饉では窮民救済や備荒政策に尽力し、その手腕は高く評価された。田沼意次の失脚後、老中首座・将軍輔佐に抜擢され、「寛政の改革」を主導する。倹約の徹底、旗本・御家人を救済する棄捐令、飢饉に備える囲米の推進、無宿人を更生させる人足寄場の設置などを進め、幕府財政と農村社会の立て直しを図った。また、学問統制を進めるなかで朱子学を重視する姿勢を打ち出し、後に「寛政異学の禁」と呼ばれる政策にもつながった。一方で、その厳格な統制は反発も招き、「白河の清きに魚も棲みかねて」と風刺される。やがて尊号一件などをめぐる対立のなかで政権の座を退いたが、その統治理念は後の幕政にも大きな影響を与えた。質素と規律をもって幕政の再建に挑んだ、まさに「質素を掲げて幕政を立て直す」改革者であった。
江戸時代編.45
シリーズ:改革という賭けに挑んだ者たち 第2回
松平定信
Matsudaira Sadanobu
質素を掲げて幕政を立て直す
Information
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「質素を掲げて幕政を立て直す」松平定信の物語
どのような時代を生きたのか
松平定信が生きた十八世紀後半から十九世紀初頭は、田沼意次↗による商業や流通の活用を重視した政策が展開される一方、天明の大飢饉という未曾有の災害に見舞われ、幕府の統治に対する信頼が大きく揺らいだ時代でした。定信は1759年(宝暦九年)、御三卿の一つである田安徳川家の当主・徳川宗武の子として江戸に生まれます。宗武は八代将軍・徳川吉宗↗の次男であり、定信は吉宗の孫にあたりました。
1774年(安永三年)、定信は陸奥白河藩主・松平定邦の養子となり、のちに白河藩主となります。この養子縁組については、「田沼意次↗が定信を将軍後継候補から遠ざけた」という説が長く語られてきました。しかし近年では、その説を裏付ける同時代史料は乏しく、定信自身の回想に依拠した後世の解釈である可能性も指摘されています。
白河藩主となった定信は、1782年から始まる天明の大飢饉への対応に力を注ぎました。備蓄米の活用や救済策の実施によって被害の軽減に努め、その手腕は広く評価されることになります。1786年に田沼意次↗が失脚すると、翌1787年(天明七年)、定信は二十八歳で老中首座・将軍輔佐に抜擢され、幕政改革を託されることになりました。
この人物が向き合った「壁」とは
定信が向き合った壁とは、「天明の大飢饉によって深刻な打撃を受けた農村社会と、統治への信頼を回復すること」でした。
田沼時代には商業や流通の発展によって都市経済が活性化しましたが、その一方で農村疲弊や社会格差の拡大を問題視する声もありました。そこへ追い打ちをかけたのが天明の大飢饉です。東北地方を中心に多くの地域が深刻な被害を受け、米価高騰や社会不安も広がりました。幕府には単なる財政問題を超えた統治の立て直しが求められていたのです。
定信は、この状況を商業振興ではなく、「質素倹約」と「農村再建」によって克服しようと考えました。それは発展する貨幣経済の流れの中で、あえて伝統的な秩序と規範を立て直そうとする、もう一つの大きな賭けでした。
この人物が示した「賭け方」とは
定信が示した賭け方とは、「質素倹約と農村再建を軸に、規律と秩序によって社会を立て直すこと」でした。
定信は老中首座就任後、「寛政の改革」と呼ばれる一連の政策を進めます。札差からの借財整理を図る棄捐令、備荒のための囲米の推進、無宿人を収容して更生を図る人足寄場の設置などを行い、社会不安の抑制と財政再建に取り組みました。また、都市へ流出した農民の帰農を促す旧里帰農令を出し、農業生産基盤の回復を図ります。学問政策では、幕府学問所において朱子学を重視する方針を打ち出し、後に「寛政異学の禁」と呼ばれる政策につながりました。
こうした改革は一定の成果を上げましたが、その一方で統制の強さへの反発も招きます。「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌は、その象徴として今日まで知られています。ただし、この狂歌については作者や成立事情に諸説があり、後世の創作である可能性も指摘されています。さらに定信は、光格天皇の実父への尊号宣下をめぐる「尊号一件」で朝廷と鋭く対立しました。また、将軍家斉の実父・一橋治済への待遇問題でも妥協しなかったため、やがて将軍家との関係も悪化していきます。
その挑戦は何を残したのか
1793年(寛政五年)、定信は老中を辞任し、幕政の第一線から退きました。その後は白河藩政や著述活動に力を注ぎ、『宇下人言』などを著して自らの改革を振り返ります。そして1829年(文政十二年)、七十歳でその生涯を閉じました。
寛政の改革は、天明の大飢饉後の混乱のなかで幕府財政と統治機構の立て直しに一定の成果を上げました。一方で、厳格な規律や統制は人々に窮屈さを感じさせ、都市社会の活力を抑制したという評価もあります。田沼意次↗と松平定信は、しばしば「商業重視」と「規律重視」の対照的な存在として語られます。しかし実際には、どちらも幕府再建を目指した改革者であり、異なる方法で時代の課題に挑んだ人物でした。
定信の生涯が語るもの、それは、時代が揺らぐとき、改革には発展を求める道だけでなく、秩序の回復を目指す道もあるということです。そして、そのどちらの道を選んだとしても、大きな反発と代償を伴うことは避けられません。まさに「質素を掲げて幕政を立て直す」という副題にふさわしい、自らの信念と規範に命運を賭けた改革者でした。
明日は、水野忠邦
松平定信が賭けたのは、質素倹約と規律による幕府の再建でした。
しかし、その退陣から半世紀ほどを経て、幕府は再び財政難と社会不安、そして外国船の接近という新たな危機に直面します。そのとき登場したのが、より強い権限と統制によって幕府の立て直しを図ろうとした老中でした。
明日お届けする第3回は、「強権で天保の改革に挑む」水野忠邦の物語に迫ります。
松平定信にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「改革という賭けに挑んだ者たち」って!?
改革という賭けに挑んだ者たち質素を掲げて幕政を立て直す
泰平の綻びと、再生への挑戦
享保の改革から半世紀余り。徳川幕府はなお泰平の世を維持していました。しかし、その内側では財政難、社会の変化、統治機構の硬直化といった問題が静かに積み重なりつつありました。
十八世紀後半、田沼意次は商業や流通の力を活用し、従来の年貢中心の財政から脱却しようと試みます。しかし、その政策は賄賂政治との批判や政争の中で挫折しました。続く松平定信は倹約と統制を重視する寛政の改革を行い、水野忠邦は天保の改革で幕政の立て直しを図ります。さらに幕末に近づくと、阿部正弘は黒船来航という未曾有の危機に直面し、従来の幕府統治そのものの見直しを迫られることになります。
一方、改革の舞台は幕府だけではありませんでした。財政難や農村の疲弊、産業振興の必要性といった問題は諸藩にも共通しており、各地で藩政改革が試みられます。上杉治憲(鷹山)は米沢藩で、佐竹義和は秋田藩で、松平治郷(不昧)は松江藩で、調所広郷は薩摩藩で、村田清風は長州藩で、松浦静山は平戸藩で、それぞれ独自の構想による改革を進めました。さらに朝廷においては、近衛家熙が学問や儀礼の再興に力を尽くします。
幕府、藩、朝廷。立場も課題も異なる人々が、それぞれの場所で行き詰まりを打開しようと挑んでいました。本シリーズが描くのは、そんな十一人の改革者たちの物語です。
改革とは、成功が保証されない賭けである
改革は、後から振り返れば成功か失敗かを語ることができます。しかし、改革に挑んだ当事者たちにとって、それは常に未来の見えない賭けでした。
田沼意次は商業の力に幕府再建の可能性を見いだしましたが、失脚によって長く否定的な評価を受けました。松平定信は規律と倹約による再建を目指しましたが、厳しい統制は反発も招きます。水野忠邦の改革は既得権益との対立によって頓挫しました。
諸藩に目を向けても事情は同じです。上杉鷹山は藩士や領民とともに財政再建を進め、後世の模範として語られる存在となりました。一方、調所広郷は薩摩藩の再建のために、幕府の統制を超えた交易を含む大胆な手法を用い、その評価は現在も議論の対象となっています。
改革の成否を決めるのは、理念の正しさだけではありません。時代の状況、人々の理解、政治的な駆け引き、そして改革者自身が負う覚悟と責任。そこには常に不確実性がありました。だからこそ改革とは、一歩を踏み出した者だけが引き受ける「賭け」だったのです。
田沼意次
商業で幕府財政に賭ける
2松平定信
質素を掲げて幕政を立て直す
3水野忠邦
強権で天保の改革に挑む
4阿部正弘
黒船来航という難題に向き合う
上杉治憲(鷹山)
米沢に「なせば成る」を示す
佐竹義和
学問で秋田藩を建て直す
松平治郷(不昧)
財政再建の富を茶の湯の美意識に注ぎ込む
調所広郷
断固たる改革と密貿易で薩摩藩を救う
9村田清風
長州藩の借財を整理し軍備を蓄える
松浦清(静山)
藩政を立て直し随筆で泰平の世相を遺す
近衛家熙
朝廷儀礼と学問の再興に賭ける
「改革」と聞くと、多くの人は寛政の改革や天保の改革を思い浮かべるかもしれません。しかし、行き詰まった制度を立て直そうとする営みは、幕府だけのものではありませんでした。諸藩では財政難や統治の課題に向き合い、朝廷では失われつつあった伝統や学問の継承が課題となっていました。近衛家熙が取り組んだ朝廷儀礼の復興や有職故実の研究も、広い意味では一つの改革でした。
歴史上の人物には、後世の評価や逸話によって形づくられたイメージが少なくありません。本シリーズでは、そうした通説にも目を向けながら、できる限り史料に即して、それぞれの改革者たちが何を目指し、何と戦い、何を残したのかを追っていきます。
幕府、藩、朝廷。それぞれの舞台で未来を賭けた十一人の物語を、その光と影も含めて、これから一緒にたどっていきましょう。
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