蓮如





Rennyo (1415-1499)

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蓮如 をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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蓮如
イラストポートレート Syusuke Galleryより

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館長

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シューちゃん

シリーズ「境界を越えた統治」スタートとなる第1話目は、蓮如 が登場

館長

本シリーズは、「境界を越える技術」をもって統治を示した七人の物語です

こんな背景

シリーズ:境界を越えた統治

第1回:蓮如 〜信仰の境界を越える〜

今回のシリーズ:「境界を越えた統治」は…
内へと閉じる時代、外へと開く思考

国家が形作られ、
制度が現実の秩序として定着していく中で、
人々はひとつの「枠組み」の中に収まりつつありました。

武士は領国を治め、
大名は天下の情勢を見極め、
民は与えられた土地と身分の中で生きる。

しかし、歴史の大きな転換期には、
そうした既存の枠組み、
「境界」そのものを疑い、
それを軽々と、
あるいは命がけで越えていく者たちが現れます。

それは、武力や、
政治的な統治権力だけでは押し測れない、
もうひとつの「世界の結び直し」でした。

「境界」とは何か

境界とは、単なる国境や、
地理的な隔たりだけではありません。

宗教と政治の分断、
武家と僧侶、
大名と商人、
内陸と海原、
そして、日本という島国と、
まだ見ぬ未知の外洋・異文化。

人々の思考や、
活動を縛り付けていた数々の「目に見えない壁」。

それこそが「境界」でした。

時代の枠組みに留まる者は、
境界の内側で権力を争いました。

しかし、真に、
新たな時代を切り拓いたのは、
その境界の「狭間」に立ち、
両者を繋ぎ合わせた者たちだったのです。

統治の領域を拡張する

本シリーズで描く「統治」とは、
一国や一領地の内側を治めることだけに留まりません。

異なる価値観を、
衝突させずに繋ぐこと。

海の向こうの異文化と交渉し、
新たな秩序を築くこと。

流通と物流の網の目を張り巡らせ、
人と物資の境界を消し去ること。

自らの足で、知恵で、
そして志で境界を越え、
新たな可能性を社会へと持ち帰った者たち。

彼らは必ずしも、
天下人や政権の中枢ではありませんでした。

しかし、彼らが境界を越えて、
打ち立てたネットワークこそが、
日本という社会の可能性を、
劇的に押し広げていったのです。

「境界を越えた統治」
第1回 蓮如

信仰の境界を越える

1
第2回 安国寺恵瓊

外交の境界を越える

2
第3回 大友宗麟

日本と南蛮世界の境界を越える

3
第4回 毛利輝元

瀬戸内海の境界を越える

4
第5回 支倉常長

日本と欧州の境界を越える

5
第6回 山田長政

日本と東南アジアの境界を越える

6
第7回 角倉了以

経済・物流で境界を越える

7
越境がもたらした世界

やがて日本は、江戸幕府による、
「鎖国」という形で、
境界を閉ざす時代へと向かいます。

しかし、彼らが残した、
越境の記憶とネットワークは、
決して消え去ることはありませんでした。

彼らが試みた、
「境界を越える技術」とは何だったのか。

既存の枠組みを飛び出し、
世界の可能性を広げた7人の、
知恵と果敢な挑戦の物語が、
いまここに始まります。

どのような時代を生きたのか

蓮如が生きたのは、
室町幕府の権威が揺らぎ、
各地で戦乱や社会不安が広がっていた、
激動の時代でした。

当時の仏教界においては、
比叡山延暦寺や、
南都興福寺などの大寺社が、
広大な領地と武力を抱え、
強大な権力を誇っていました。

そこには、身分や、
地域による厳しい格差と壁が、
存在していたのです。

難解な漢文で記された経典や、
深遠な教義は、
一部の権力者や、
僧侶だけに許されたものであり、
日々の糧を得るのに必死な民衆が、
仏の救いに直に触れる機会は、
ほとんどありませんでした。

そのような時代に、
衰退していた本願寺の第八世となった蓮如は、
人々を隔てる様々な境界に、
立ち向かうことになります。

蓮如は、混迷を極める社会の中で、
阿弥陀仏の救いを説きながら、
やがて日本全国へと及ぶ、
広大な信仰共同体を築き上げていくことになります。

越境を余儀なくされた「狭間」とは

蓮如が立ったのは、
権威化された既成仏教と、
救いを求めて彷徨う、
民衆との深い狭間でした。

当時の本願寺は、
決して大きな勢力ではなく、
旧来の宗教勢力からの圧迫は、
苛烈を極めました。

事実、比叡山の宗徒によって、
大谷本願寺は破却され、
蓮如自身も京都を追われる身となります。

一方で、戦乱や不作、
飢饉に苦しむ民衆は、
明日の命も知れぬ不安の中にありながら、
高遠な仏教の世界からは見捨てられていました。

救いを求める心はあっても、
その教えを届ける術がない。

京都を追われ、
北陸・吉崎の地へと落ち延びた蓮如は、
この隔たりを埋める必要を痛感します。

中央の宗教権威と、
地方に生きる民衆。

聖なる知識を持つ僧侶と、
日常を生きる在家信者。

身分の高低によって峻別された社会。

これら目に見えぬ境界を破らねば、
本願寺の再興も、
虐げられた人々の救済も、
成し得なかったのです。

この人物が示した「越境の術」とは

蓮如が示した越境の術は、

「難解な教えを平易な言葉へと置き換え、人と人を信仰で結び付けること」

でした。

蓮如は「御文(おふみ)」と呼ばれる、
和文の手紙を執筆し、
各地の門徒へ書き送りました。

その手紙は、
難しい教義を誰もが理解できる、
日常の言葉で説き明かしたものであり、
各地で形成された、
「講」と呼ばれる集まりの中で、
繰り返し読み聞かされたのです。

文字の読めない農民や町人、
職人や地方の武士たちも、
同じ言葉を聞き、
同じ念仏を口にすることで、
等しく仏の救いに預かることができました。

蓮如は身分や性別、
地域の違いを問わず広く門戸を開き、
京都から北陸、東海、近畿へと、
地域を超えた強固な結びつきを形作っていきます。

蓮如が手掛けたのは、
単なる寺院組織の拡大ではありません。

身分や隔たりを越えて、
人々が対等に結び付く、
まったく新しい連帯の仕組みだったのです。

その姿は何を変えたのか

蓮如の精力的な活動により、
衰退していた本願寺は、
日本最大の教団へと飛躍的な成長を遂げました。

各地に根を張った門徒の組織は、
単なる信仰の集いにとどまらず、
人々が生活を助け合い、
地域を守る自立した、
共同体へと発展していきます。

これらは後の本願寺が持つ、
巨大な社会基盤の礎となりました。

さらに、それまで権力者や、
知識人の占有物であった仏教を、
真の意味で民衆の手へと解放する、
歴史的な転換点ともなったのです。

蓮如は刀を振るう武将ではありません。

政治の表舞台で采配を振るう権力者でもありません。

それでも、言葉と信仰の力によって、
人々の心を繋ぎ、
既存の身分制度や、
地域社会のあり方そのものを根底から揺り動かしました。

「聖と俗」
「中央と地方」
「貴と賤」

数多の境界を破り、
新たな共同体の姿を提示したその足跡は、
まさに「信仰の境界を越えた」時代の先駆者であったと言えます。

明日は、安国寺恵瓊 

蓮如が越えたのは、
信仰と身分、中央と地方の境界でした。

しかし戦国の世が深まると、
信仰にとどまらず、宗教と政治、
中央と地方という、
巨大な利害の境界を越えて時代を動かす者が現れます。

次回登場するのは、
毛利家に仕えた臨済宗の僧であり、
戦国時代を代表する外交僧。

武力ではなく、
言葉と駆け引きを武器に、
織田・豊臣と毛利の狭間で、
激動の歴史を動かした人物です。

第2回は、
「外交の境界を越える」安国寺恵瓊の物語に迫ります。

1537?-1600を生きた僧。武将ではなく僧侶の立場から毛利家の命運を支え続けた。豊臣秀吉による中国攻めでは、織田・豊臣方と毛利方の交渉役を務め、本能寺の変直後に成立した講和をまとめ上げるなど、高度な外交手腕を発揮している。その後も毛利輝元の側近として中央政界との折衝にあたり、豊臣政権と西国大名を結ぶ重要な役割を担った。関ヶ原の戦いでは西軍の中心人物として行動、敗戦後に処刑された。しかし恵瓊の真価は、戦場ではなく交渉の場にあった。宗教と政治、中央と地方、大名家同士の利害が複雑に交錯する時代において、言葉と信頼を武器に道を切り拓いたその姿は、まさに「外交の境界を越える」と呼ぶにふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生年を1537年とさせていただきます。
【政治の部屋|安国寺恵瓊】安土桃山時代編.43

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13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!
13東京都
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現するNew!!
13東京都
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
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