徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
江戸時代編.63
シリーズ:幕末へ舵を切った将軍たち 第1回
徳川家斉
Tokugawa Ienari
50年の治世で幕府を緩ませる
Information
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今回のシリーズ「幕末へ舵を切った将軍たち」って!?
幕末へ舵を切った将軍たち50年の治世で幕府を緩ませる
黒船が来る、ずっと前から
「幕末」と聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは1853年のペリー来航でしょう。しかし、徳川幕府という巨大な船の屋台骨がきしみ始めたのは、黒船が浦賀沖に姿を現すずっと前のことでした。
1787年、わずか15歳で将軍となった徳川家斉。その約50年に及ぶ歴代最長の治世は、化政文化という華やかな繁栄を生み出しました。一方で、大奥の拡大や財政規律の緩みは、幕府の統治基盤を少しずつ揺るがしていきます。続く家慶の時代には天保の改革が挫折し、幕府は内政上の課題を抱えたまま黒船来航という未曾有の外圧に直面しました。そして、その混乱のなかで家定が将軍職を継ぎます。やがて幕府は、将軍継嗣問題、公武合体、そして大政奉還という大きな歴史のうねりに巻き込まれていきました。
家斉が将軍となってから、慶喜が最後の将軍として幕府の幕を閉じるまで、およそ八十年。本シリーズが描くのは、泰平の成熟と揺らぎから幕府の終焉に至るまでの過渡期を歩んだ、五人の将軍の物語です。
「舵を切る」とは、望んだ航路を選ぶことではない
将軍は、江戸幕府の頂点に立つ存在でした。しかし、幕末へ向かう時代を生きた将軍たちの手に握られていた舵は、決して自由に動かせるものではありませんでした。
大御所・家斉の影響下で将軍となった家慶は、人材を見抜く眼を持ちながらも、自らが強く政治を主導することは多くありませんでした。
病弱だった家定は、後継者をめぐって諸大名や幕閣が二つに割れた、将軍継嗣問題の渦中に置かれます。
満12歳で将軍となった家茂は、朝廷と幕府の板挟みのなかで心身を削り続けました。
そして慶喜は、大政奉還という決断によって、自ら政権を朝廷へ返上することになります。
幕末の動乱は、特定の誰か一人の失政や不徳によって生まれたものではありません。長年にわたって積み重なった統治体制の緩み、黒船来航に代表される外圧、血統をめぐる継嗣問題、そして朝廷との関係の変化。そうした複数の要因が折り重なった結果でした。
「舵を切る」とは、望む目的地へ向かうことではありません。荒波のなかで何を守り、何を手放すのか。限られた選択肢の中で決断を積み重ねていくことだったのです。
歴史は往々にして、結果から逆算して語られます。幕府が滅亡したという結末を知る私たちは、最後の五人の将軍を「衰退期の将軍たち」と一括りにしてしまいがちです。しかし、彼らが直面していたのは、誰も未来を知らない時代の現実でした。
家斉の時代には繁栄がありました。
家慶の時代には改革への再挑戦がありました。
家定と家茂の時代には、国難のなかで体制を維持しようとする模索がありました。
そして慶喜の代になって初めて、「幕府の終焉」が現実の選択肢として浮上してきます。
後世の結果だけで彼らの決断を評価しないこと。それは、変化の時代を生きる現代の私たちにとっても大切な視点ではないでしょうか。
なお、家定に付きまとう「暗愚」という評価は、将軍継嗣問題をめぐる対立勢力側の記録によって形づくられた側面が大きいとも指摘されています。また、家慶の「そうせい様」という渾名や黒船来航時の発言についても、後世に広まった逸話の要素を含むため、史料の取扱いには慎重さが求められます。
史実と伝承のあいだを見極めながら、幕府という巨大な船の最後を見届けた五人の将軍たちの足跡を、ともにたどっていきましょう。

「50年の治世で幕府を緩ませる」徳川家斉の物語
どのような時代を生きたのか
徳川家斉が生きた十八世紀後半から十九世紀前半は、田沼意次↗の時代から寛政の改革を経て、経済と文化の成熟と、財政・統治の緩みが同時に進んでいった時代でした。
家斉は1773年、御三卿の一つ・一橋家の当主、一橋治済の長男として生まれます。八代将軍・吉宗の血を引く一橋家の子として育った家斉に、将軍の座が回ってくる見込みは、本来それほど高いものではありませんでした。しかし1779年、十代将軍・家治の世子であった家基が急逝すると、状況は一変します。1781年、家斉は家治の養子として江戸城に迎えられ、世子の座に就きました。
1786年に家治が没すると、翌1787年、家斉はわずか十三歳で第十一代将軍に就任します。天明の大飢饉の傷がなお癒えぬなか、同年には江戸で大規模な打ちこわしも起こっており、若き将軍は、きわめて不安定な状況のなかで、その治世を始めることになったのです。
この将軍が受け継いだもの
家斉が受け継いだもの、それは、「田沼時代の功罪と天明の大飢饉の傷跡、そして幼い将軍を支えるべく動き出した、松平定信↗らによる立て直しの体制」でした。
田沼意次↗は、家治の死とともに失脚しました。商業の力を取り込もうとした田沼政治は、都市の繁栄をもたらした一方、賄賂への批判や、飢饉への対応の不十分さを問われ、その評価は大きく割れていました。家斉が将軍となったとき、幕府の統治への信頼は、すでに大きく揺らいでいたのです。
この状況を立て直す役目を託されたのが、老中首座に就いた松平定信↗でした。定信は、幼い将軍を補佐する体制のもとで、倹約と農村の再建、社会秩序の引き締めを柱とする寛政の改革を進めます。家斉が受け継いだのは、将軍個人の力量よりも、補佐役の主導によって動き出していた、立て直しの枠組みそのものでした。
この将軍が切った舵
家斉が切った舵、それは、「引き締めを主眼とする寛政の改革から、将軍自身が主導権を握り、緩やかな統治へと移っていく路線」でした。
1793年、定信は老中を辞します。その背景には、厳しい統制への反発に加え、将軍の実父・一橋治済の処遇などをめぐる、将軍家との軋轢もあったと考えられています。その後しばらくは、定信の路線を引き継いだ老中たちが幕政を担いましたが、やがて家斉は、側近を重用する形で、自ら政治の主導権を握っていきます。とりわけ文政期には、家斉の信任を受けた水野忠成が幕政の中心となりました。この時期の幕府は、貨幣の質を落とす改鋳によって収益を確保する一方、役人の間で賄賂が広がったとされ、「水野出て もとの田沼に なりにけり」と詠まれたと伝えられます。なお、この狂歌の作者や成立の経緯については、諸説があります。
また家斉は、多くの側室を持ち、五十人を超える子女に恵まれたと伝えられています。子女は各地の大名家と縁組を結び、幕府と諸藩を結びつける役割を果たしましたが、大奥の規模や諸経費の拡大、縁組を受け入れる藩の負担など、財政面での重荷にもなりました。一方で、この時期の江戸では、庶民文化が大きく花開きます。いわゆる「化政文化」です。葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、滝沢馬琴の読本、十返舎一九の滑稽本など、町人の力を背景とした文化が、江戸を中心に隆盛を極めました。対外的には、1825年に異国船打払令を発するなど、外国船の接近という新たな現実にも向き合いはじめていました。
引き締めから緩みへ。しかしその緩みは、同時に、繁栄と文化を育む余地でもありました。家斉が切った舵は、幕府の規律を緩ませる一方で、文化と経済の成熟をもたらしたという、二つの顔を持っていたのです。
その治世は何を残したのか
1837年、家斉は将軍職を子の家慶に譲り、六十三歳で隠居します。しかし、以後も大御所として江戸城西の丸に居を構え、実権を握り続けました。在職およそ五十年は、歴代将軍で最長です。同年には大坂で大塩平八郎↗の乱が起こり、浦賀沖ではモリソン号事件が発生するなど、長く続いた泰平の裏側で、幕藩体制のほころびが表面化しつつありました。
1841年、徳川家斉は六十七歳でその生涯を閉じます。家斉の死後、老中・水野忠邦↗は、家斉の側近たちを幕政から退け、天保の改革に着手しました。長く続いた家斉の時代の緩みを正す動きが、ここから本格化することになります。
家斉の治世は、幕府の規律を緩ませたと批判される一方で、化政文化という豊かな庶民文化を育み、江戸を世界有数の都市として成熟させた時代でもありました。評価は、緩みを責める見方と、繁栄を評価する見方のあいだで、今も分かれています。
家斉の生涯が語るもの、それは長い安定のなかで、繁栄と緩みは同じ根から育ち、その行方が表に現れるのは、時に次の時代になってからだという事実です。徳川家斉の生涯は、そのことを私たちに静かに教えてくれます。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、徳川家慶
徳川家斉が切ったのは、繁栄と緩みを併せ持つ、五十年の治世という舵でした。
しかしその長い治世のあいだ、将軍の座を待ち続け、父の没後にようやく実権を握った人物がいます。天保の改革への再挑戦、そして黒船の来航。幕末の入口に立つことになる将軍です。
明日登場するのは、徳川家慶。
第2回は、「黒船来航に立ち会う将軍」徳川家慶の物語に迫ります。
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