徳川秀忠 イラストポートレート

江戸時代編.25

シリーズ:幕府を築いた将軍たち 第2回

徳川秀忠

Tokugawa Hidetada

二代将軍として幕府を固める

1579–1632 | 出生地:静岡県 | 政治の部屋

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彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」

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「二代将軍として幕府を固める」徳川秀忠の物語

どのような時代を生きたのか

徳川秀忠が生きた十六世紀末から十七世紀前半は、関ヶ原の戦いによって徳川家康↗が天下の実権を握り、戦国の争乱から新たな統治の時代へと移り変わっていく時代でした。

秀忠は1579年、徳川家康↗の三男として遠江国浜松城に生まれます。長兄・信康は父の命によって自刃し、次兄・秀康も結城家へ養子に出されたため、秀忠は事実上の後継者として育てられました。豊臣秀吉↗政権のもとで成長した秀忠は、伏見にも出仕し、天下統一へ向かう時代の空気を肌で感じながら若き日々を過ごします。

1600年、関ヶ原の戦いでは、家康率いる東軍の別働隊を任されますが、真田昌幸↗・信繁父子の守る上田城に足止めされ、本戦に間に合わないという苦い経験を味わいました。それでも父・家康の信頼は揺らぐことなく、1603年の江戸幕府開府からわずか二年後の1605年、秀忠は二代将軍の座を継ぐことになるのです。

この人物が向き合った「課題」とは

秀忠が向き合った課題とは、「家康個人の実力と威望によって成り立っていた徳川政権を、将軍という地位そのものの権威によって支えられる体制へと転換すること」でした。

関ヶ原での遅参によって、秀忠は将軍としての力量を疑われかねない立場から出発しました。しかも将軍就任後も、家康は駿府にあって大御所として実権を握り続け、幕府は将軍と大御所による二元的な政治体制のもとで運営されていました。1616年に家康が没すると、秀忠は初めて名実ともに幕府最高の権力者となります。父という絶対的な後ろ盾を失った状況で、諸大名や朝廷との関係を整理し、将軍という地位そのものに揺るぎない権威を与えること。それこそが、秀忠に課された時代の課題だったのです。

この人物が示した「築き方」とは

秀忠が示した築き方とは、「法と統制によって諸大名や朝廷との関係を整理し、将軍という地位そのものの権威を制度として確立すること」でした。

1615年、幕府は武家諸法度と禁中並公家諸法度を制定します。武家諸法度は諸大名の行動規範を定め、禁中並公家諸法度は朝廷や公家の活動を規定するものでした。これにより幕府は、武家社会だけでなく、朝廷との関係にも一定の秩序を与えていくことになります。また秀忠は、将軍権力に対する潜在的な脅威となり得る勢力に対しても厳しく臨みました。実弟である松平忠輝を1616年に改易・配流し、1619年には福島正則↗を、1622年には老中・本多正純をそれぞれ改易に処すなど、将軍権力に抵触しかねない存在を次々と取り除いていきます。さらに1620年には、娘・和子を後水尾天皇↗に入内させ、将軍家と皇室を婚姻によって結びつけました。

1623年に将軍職を子の家光へ譲った後も、秀忠は大御所として実権を握り続けます。そして1627年の紫衣事件では、朝廷が幕府の意向に反して高僧へ紫衣の着用を認めたことを問題視し、幕府の法令を優先させました。この事件には、幕府と朝廷の主導権をめぐる政治的側面もあったと考えられており、単純な法令違反の摘発としてのみ捉えることはできません。武力だけではなく、法と秩序によって支配を根付かせる。それこそが、秀忠が示した、幕府の固め方だったのです。

その生涯は何を残したのか

1632年、徳川秀忠は五十三歳でその生涯を閉じました。関ヶ原での遅参という失態を抱えながら将軍となった秀忠ですが、その治世は、父・家康が切り開いた幕府を、制度と統制によって確かな体制へと育て上げる年月でした。秀忠が残した最大の遺産は、将軍職が徳川家によって世襲される政治の中心であることを、法と統制によって天下に示したことにあります。家康個人の実力に依存していた政権を、家康なきあとも機能し続ける制度へと変えていく。それは華々しい戦功ではなく、地道な統治によって成し遂げられた仕事でした。

徳川秀忠の生涯は、創業者が築いた土台を守り育てることもまた、新たな体制を築くことに等しい価値を持つということを教えてくれます。まさに「二代将軍として幕府を固める」という、副題にふさわしい人生でした。

Coming Next

明日は、徳川家光

秀忠が固めたのは、将軍という地位そのものの権威でした。

しかし、その権威を全国に行き渡らせ、将軍を頂点とする仕組みを制度として確立するには、さらなる整備が必要でした。二代にわたって積み上げられた基盤の上に立ち、将軍権力を制度として完成へ近づけていった人物がいます。

明日登場するのは、徳川家光。
第3回は、「参勤交代で幕府の骨格を築く」徳川家光の物語に迫ります。

1604-1651を生きた武将。徳川秀忠の次男として江戸城西の丸に生まれ、乳母・福(後の春日局)に育てられた。病弱で吃音があったと伝えられるが、祖父・家康や乳母・春日局の後押しも受け、世子の地位を確立し、1623年に三代将軍となる。秀忠の死後は大御所との二元政治を解消して親政を開始し、老中・若年寄・奉行・大目付による職制を整備するなど、将軍を頂点とする幕府機構を確立した。1635年の武家諸法度改訂では大名に参勤交代を義務づけ、諸大名の経済力を抑えつつ将軍への忠誠を制度として組み込んでいる。また対外的にはキリシタン弾圧と貿易統制を強化し、島原の乱の鎮圧を経て、長崎を窓口とするいわゆる鎖国体制を完成させた。祖父・家康を深く敬いながらも独自の統治手腕を発揮し、江戸幕府の骨格そのものを築き上げ将軍権力を絶対的なものへと高めた生涯は、まさに「参勤交代で幕府の骨格を築く」将軍であった。
【政治家の部屋|徳川家光】参勤交代で幕府の骨格を築く
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今回のシリーズ「幕府を築いた将軍たち」って!?

Series

幕府を築いた将軍たち

ひとりでは完成しない体制

初代が戦乱を鎮め 二代が統制を固め、三代が制度を整え、四代が政治の方向を転換し、五代が幕府の価値観に新たな色を加える。

本シリーズが描くのは、一人の英雄が成し遂げた天下統一の物語ではありません。一つの政権が、約八十年をかけて 安定した統治体制へと育っていく、五代の将軍たちの歩みです。

「未完成の連続」としての幕府

多くの人は「江戸幕府」と聞くと、家康が開いた瞬間から、完成された制度が存在していたように思いがちです。しかし実際の幕府は、一度の完成で出来上がったものではありませんでした。

家康が幕府を開き、秀忠が大名や朝廷との関係を整理し、家光が将軍権力を制度として確立していく。そして家綱の代には、武力を中心とした「武断」から、法と秩序を重視する「文治」へと流れが変わり始めます。さらに綱吉は、 儒学を重んじる政治によって、幕府の価値観そのものに変化をもたらしました。

本シリーズが伝えたいのは、体制とは一人の天才が一瞬で完成させるものではなく、代々の指導者が課題と向き合い、修正と継承を繰り返すことで 形づくられていくという視点です。"

創業者が去った「その後」の強さ

組織や制度が本当の意味で強くなるのは、創業者が去った後です。創業者は枠組みを作ることができます。しかしその仕組みを機能させ、次の世代へ受け継いでいくためには、後継者たちによる不断の手直しが欠かせません。

秀忠の統制、家光の制度化、家綱の路線転換、綱吉の価値観の刷新。それぞれが前の代から受け継いだ課題と向き合い、時代に応じた修正を加えながら、後に二百六十年以上続く江戸幕府の基盤を積み上げていきました。

なお綱吉といえば、「生類憐みの令」による 「犬公方」の異名で知られています。しかし近年の研究では、動物保護だけでなく、弱者救済や儒教的な仁政思想との関わりも指摘され、その評価は見直されつつあります。華やかな開府の物語だけでは語り尽くせない、将軍たちの地道な積み重ね。これから五代にわたる「幕府づくり」の歴史を見ていきましょう。

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