国家が形作られ、
制度が現実の秩序として定着していく中で、
人々はひとつの「枠組み」の中に収まりつつありました。
武士は領国を治め、
大名は天下の情勢を見極め、
民は与えられた土地と身分の中で生きる。
しかし、歴史の大きな転換期には、
そうした既存の枠組み、
「境界」そのものを疑い、
それを軽々と、
あるいは命がけで越えていく者たちが現れます。
それは、武力や、
政治的な統治権力だけでは押し測れない、
もうひとつの「世界の結び直し」でした。
境界とは、単なる国境や、
地理的な隔たりだけではありません。
宗教と政治の分断、
武家と僧侶、
大名と商人、
内陸と海原、
そして、日本という島国と、
まだ見ぬ未知の外洋・異文化。
人々の思考や、
活動を縛り付けていた数々の「目に見えない壁」。
それこそが「境界」でした。
時代の枠組みに留まる者は、
境界の内側で権力を争いました。
しかし、真に、
新たな時代を切り拓いたのは、
その境界の「狭間」に立ち、
両者を繋ぎ合わせた者たちだったのです。
本シリーズで描く「統治」とは、
一国や一領地の内側を治めることだけに留まりません。
異なる価値観を、
衝突させずに繋ぐこと。
海の向こうの異文化と交渉し、
新たな秩序を築くこと。
流通と物流の網の目を張り巡らせ、
人と物資の境界を消し去ること。
自らの足で、知恵で、
そして志で境界を越え、
新たな可能性を社会へと持ち帰った者たち。
彼らは必ずしも、
天下人や政権の中枢ではありませんでした。
しかし、彼らが境界を越えて、
打ち立てたネットワークこそが、
日本という社会の可能性を、
劇的に押し広げていったのです。
やがて日本は、江戸幕府による、
「鎖国」という形で、
境界を閉ざす時代へと向かいます。
しかし、彼らが残した、
越境の記憶とネットワークは、
決して消え去ることはありませんでした。
彼らが試みた、
「境界を越える技術」とは何だったのか。
既存の枠組みを飛び出し、
世界の可能性を広げた7人の、
知恵と果敢な挑戦の物語が、
いまここに始まります。
支倉常長が生きたのは、
凄惨な戦国乱世がようやく幕を閉じ、
徳川家康によって、
天下の秩序が定まりつつあった時代でした。
しかし、国内の波乱が収まりを見せる一方で、
大海原の向こう側には、
思いもよらぬ広大な世界が広がっていました。
16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパは、
「大航海時代」の真っ只中にあり、
スペインやポルトガルは未知の大洋を制し、
地球を丸ごと包み込む巨大な交易網を広げていたのです。
当時の日本人にとって、
欧州は絵図の果てに存在する遥かなる異空間でした。
言葉も、衣服も、神への祈りも、
異なるその世界との間には、
荒れ狂う大海原とはるか彼方の距離という、
未知とも言える境界が横たわっていました。
そうした時代に、仙台藩主、
伊達政宗の忠実なる家臣であった支倉常長は、
日本人の歴史において前例のない、
命を賭した壮大な大渡海へと、
足を踏み出すことになります。
常長が立ったのは、
「日出づる国・日本」と、
「大航海時代の欧州世界」という、
二つの巨大な文明の狭間でした。
陸奥の地に雄飛する伊達政宗は、
太平洋をまたぐ直接貿易によって、
莫大な富を得て、
自らの領国を世界へ拓くという、
雄大な野望を抱いていました。
しかし、その道筋には、
幾重もの険しい壁が立ちはだかります。
見知らぬ異国の言語や、
未知なるキリスト教という教義。
そして何より、
船を呑み込む太平洋の狂暴な怒浪。
さらに時代は刻一刻と動き、
徳川幕府はキリスト教への警戒を強め、
禁教と鎖国へ向けて大きく舵を切り始めていました。
時代の猶予は残されていません。
常長は主君の熱き野望と、
仙台藩の未来を背負い、
文明と文明の断絶を繋ぐ、
唯一無二の遣欧使節・正使として、
大海原へ乗り出したのです。
常長が示した越境の術は、
「あらゆる異質な文化と信仰を受け入れ、言葉と誠意をもって大海原の彼方へ踏み込むこと」
でした。
慶長17年(1612年)の渡航失敗を乗り越えた常長は、
翌年の慶長18年に2度目の挑戦として、
仙台藩が建造した洋式木造帆船、
「サン・ファン・バウティスタ号」に乗り込み、
荒波猛る太平洋へ出航しました。
数多の苦難を乗り越えて、
メキシコ(新スペイン)へ辿り着くと、
さらに大西洋を渡ってスペイン本国へと到達。
常長は自ら洗礼を受けてカトリックの信仰を受け入れ、
国王フェリペ3世との謁見を果たします。
勢いはそれにとどまりません。
常長らは地中海を越えてローマへ入城し、
ローマ教皇パウルス5世に謁見。
東洋の使者として熱狂的な歓迎を受け、
日本人として初めて、
ローマ市公民権を授与されるに至ったのです。
異国の衣を纏い、
異国の礼節を修めながらも、
武士としての気迫を失わず交渉に臨んだ常長。
それは単なる航海ではなく、
身心すべてをもって、
異文化の境界を突破しようとした、
魂の挑戦でした。
しかし、栄光の旅路の果てに待っていたのは、
あまりにも残酷な時代の暗転でした。
7年におよぶ壮絶な旅を終え、
常長が帰国した頃には、
幕府の禁教令によって日本は、
対外交流を大きく制限する時代へと、
向かいつつありました。
政宗の目指した直接貿易の構想は潰え、
常長自身も歴史の表舞台から、
消し去られるかのような不遇のうちに、
その生涯を閉じることになります。
しかし、常長が刻んだ足跡の輝きは、
いかなる時代の闇も覆い隠すことはできませんでした。
常長が残したローマ市公民権証書や、
使節団に関する文書・肖像画は、
今日も国内外に残され、
当時の日欧交流を伝える貴重な史料となっています。
誰も見たことのない世界へと飛び込み、
地球を半周して二つの大海原を渡り切った支倉常長。
その足跡は、
「日本と欧州の境界を越え」、
世界史の表舞台に日本の誇りを打ち立てた、
不屈の挑戦者の姿そのものでした。
支倉常長が越えたのは、
日本と欧州を隔てる二つの大海原の境界でした。
しかし、海外へと飛び出した日本人は、
藩の命を帯びた外交使節だけではありませんでした。
己の刀と才覚ひとつで南洋の海へ渡り、
異国の王朝において極位極官に登りつめた男がいたのです。
次回登場するのは、
東南アジアのシャム王国(タイ)で王室の信頼を得て、
日本人町の領袖として勇名を馳せた異色の英傑。
第6回は、
「日本と東南アジアの境界を越える」山田長政の物語に迫ります。