大友宗麟





Otomo Sorin (1530-1587)

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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大友宗麟
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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館長

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シューちゃん

シリーズ「境界を越えた統治」第3話目は、大友宗麟 が登場

館長

本シリーズは、「境界を越える技術」をもって統治を示した七人の物語です

こんな背景

シリーズ:境界を越えた統治

第3回:大友宗麟 〜日本と南蛮世界の境界を越える〜

今回のシリーズ:「境界を越えた統治」は…
内へと閉じる時代、外へと開く思考

国家が形作られ、
制度が現実の秩序として定着していく中で、
人々はひとつの「枠組み」の中に収まりつつありました。

武士は領国を治め、
大名は天下の情勢を見極め、
民は与えられた土地と身分の中で生きる。

しかし、歴史の大きな転換期には、
そうした既存の枠組み、
「境界」そのものを疑い、
それを軽々と、
あるいは命がけで越えていく者たちが現れます。

それは、武力や、
政治的な統治権力だけでは押し測れない、
もうひとつの「世界の結び直し」でした。

「境界」とは何か

境界とは、単なる国境や、
地理的な隔たりだけではありません。

宗教と政治の分断、
武家と僧侶、
大名と商人、
内陸と海原、
そして、日本という島国と、
まだ見ぬ未知の外洋・異文化。

人々の思考や、
活動を縛り付けていた数々の「目に見えない壁」。

それこそが「境界」でした。

時代の枠組みに留まる者は、
境界の内側で権力を争いました。

しかし、真に、
新たな時代を切り拓いたのは、
その境界の「狭間」に立ち、
両者を繋ぎ合わせた者たちだったのです。

統治の領域を拡張する

本シリーズで描く「統治」とは、
一国や一領地の内側を治めることだけに留まりません。

異なる価値観を、
衝突させずに繋ぐこと。

海の向こうの異文化と交渉し、
新たな秩序を築くこと。

流通と物流の網の目を張り巡らせ、
人と物資の境界を消し去ること。

自らの足で、知恵で、
そして志で境界を越え、
新たな可能性を社会へと持ち帰った者たち。

彼らは必ずしも、
天下人や政権の中枢ではありませんでした。

しかし、彼らが境界を越えて、
打ち立てたネットワークこそが、
日本という社会の可能性を、
劇的に押し広げていったのです。

「境界を越えた統治」
第1回 蓮如

信仰の境界を越える

1
第2回 安国寺恵瓊

外交の境界を越える

2
第3回 大友宗麟

日本と南蛮世界の境界を越える

3
第4回 毛利輝元

瀬戸内海の境界を越える

4
第5回 支倉常長

日本と欧州の境界を越える

5
第6回 山田長政

日本と東南アジアの境界を越える

6
第7回 角倉了以

経済・物流で境界を越える

7
越境がもたらした世界

やがて日本は、江戸幕府による、
「鎖国」という形で、
境界を閉ざす時代へと向かいます。

しかし、彼らが残した、
越境の記憶とネットワークは、
決して消え去ることはありませんでした。

彼らが試みた、
「境界を越える技術」とは何だったのか。

既存の枠組みを飛び出し、
世界の可能性を広げた7人の、
知恵と果敢な挑戦の物語が、
いまここに始まります。

どのような時代を生きたのか

大友宗麟が生きたのは、
各地の戦国大名が、
領地を巡って激しく凌ぎを削り、
日本全体が群雄割拠の戦乱に明け渡されていた時代でした。

しかしその頃、
日本の海の向こうでは、
歴史を根底から揺るがす、
大きな事態が進行していました。

ポルトガル船の来航によって、
鉄砲やキリスト教、
さらには西洋の先進的な学問や、
知識がもたらされ、
日本は歴史上初めて、
本格的にヨーロッパ世界と相まみえることになります。

当時の戦国大名にとって、
海は単なる国境や地理的な隔たりではありませんでした。

それは、未知なる文明と価値観が渦巻く、
巨大な境界そのものだったのです。

豊後国(現在の大分県)の戦国大名であった宗麟は、
九州北部に強大な勢力を誇りながら、
その境界の向こう側に広がる広大な可能性へと、
誰よりも早く眼差しを向けました。

宗麟は国内の武力闘争にとどまらず、
海を越えた異文化との交流によって領国を富ませ、
新たな秩序を打ち立てようとした、
きわめて高い識見を持つ統治者でした。

越境を余儀なくされた「狭間」とは

宗麟が立ったのは、
「日本の伝統社会」と、
「南蛮世界」との深い狭間でした。

戦国大名にとって、
海外との貿易がもたらす、
巨大な富や威信は魅力であった反面、
異文化や異宗教の侵入は、
自らの領国支配を根底から揺るがしかねない諸刃の剣でした。

ポルトガル商人との交易は、
莫大な財貨と最新の兵器をもたらします。

しかし同時に、
フランシスコ・ザビエルらに始まる、
キリスト教の布教は、
寺社を中心とする既存の宗教秩序や、
家臣団の結束と激しく衝突する危険を孕んでいました。

宗麟はこの苛烈な葛藤に向き合うことになります。

領国の繁栄と自立を図るならば、
海の外から流入する力と知識を拒むことはできない。

しかし、急激な変革は、
代々受け継がれてきた武家社会の秩序を、
内部から壊しかねない。

宗麟は「伝統と変革」、
二つの文化のせめぎ合う苛烈な境界線上で、
苦渋の選択を重ねていたのです。

この人物が示した「越境の術」とは

宗麟が示した越境の術は、

「異質の価値観を深く受け入れ、新たな時代の知恵へと転換すること」

でした。

宗麟は宣教師や、
異国の商人を手厚く保護し、
南蛮貿易による莫大な利益を領国経営へと還元しました。

豊後府内(現在の大分市)は、
西洋の医学や音楽、
学問が花開く国際都市へと変貌を遂げ、
西洋式病院や慈善施設が設けられるなど、
異国の文明が息づく未知の空間となったのです。

さらに宗麟は自ら洗礼を受け、
ドン・フランシスコの洗礼名を持つ、
キリシタン大名となりました。

家臣や既存寺院からの強い反発を受けながらも、
自らの精神の根幹において、
異文化を受け入れる決断を下したのです。

また、ローマ教皇のもとへ海を渡った、
「天正遣欧少年使節」の派遣を、
名代として支援し、
日本という存在を、
世界へ知らしめる足がかりを築きました。

宗麟は単なる貿易の利得者ではありません。

信仰と知識の境界を越え、
新たな社会のあり方を模索し続けた、
挑戦者だったのです。

その姿は何を変えたのか

宗麟の果敢な越境によって、
豊後は日本屈指の国際交流拠点となり、
その先進的な試みは、
日本社会の視野を大きく押し広げました。

南蛮貿易を通じて持ち込まれた、
医療、天文学、印刷術、そして兵器や航海術は、
旧来の知識体系に強い衝撃を与え、
後の日本における学術や文化の発展に、
計り知れぬ影響を残すことになります。

もちろん、宗麟の挑戦が、
すべて平坦だったわけではありません。

既存勢力との軋轢や島津氏との凄惨な闘争により、
晩年には領国が大きく揺らぎ、
その理想像のすべてが、
結実したわけではありませんでした。

それでも、
海の向こうの未知なる世界へと果敢に踏み出し、
異文化と日本社会を結び付けたその軌跡は、
日本の国際交流史における偉大な先駆として、
輝き続けています。

多くの大名が目先の領地争いに終始する中、
宗麟は海原の先にある「世界」を見つめていました。

その足跡は、
「日本と南蛮世界の境界を越え」、
未知なる扉を開いた稀有な統治者の姿そのものでした。

明日は、毛利輝元

大友宗麟が越えたのは、
日本と南蛮世界という文明の境界でした。

しかし海が結ぶ世界は、
海外との交流だけにとどまりません。

日本国内においても、
多くの人と物資が行き交う、
巨大な海域空間が存在していました。

次回登場するのは、
中国地方最大の大名として、
瀬戸内海を中心とする、
広大な水運ネットワークを束ねた人物。

第4回は、
「瀬戸内海の境界を越える」毛利輝元の物語に迫ります。

1553-1625を生きた武将。祖父・毛利元就が築き上げた基盤を受け継ぎ、中国地方最大の大名として広大な領国を治める。輝元が支配した毛利領国は、陸上だけでなく瀬戸内海の海上交通によって結ばれており、多様な人々や物資が行き交う広域ネットワークの上に成り立っていた。輝元は村上水軍をはじめとする海上勢力と連携しながら、瀬戸内海の航路や交易を押さえ、中国地方から畿内へと続く重要な交通圏を維持し、豊臣政権では五大老の一人として中央政治にも参画し、地方大名でありながら全国規模の統治にも関わっている。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるも、敗戦によって領土を大きく失った。瀬戸内海という巨大な海域空間を一つの秩序のもとにまとめ上げたその姿は、まさに「瀬戸内海の境界を越える」統治者であった。
【政治の部屋|毛利輝元】安土桃山時代編.45

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13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!
13東京都
1643-1724を生きた大名。加賀藩三代藩主・前田光高の長男として江戸の藩邸に生まれる。父が早世したため、わずか三歳で加賀藩を継ぎ、祖父・前田利常の後見のもとで成長した。長じて保科正之の娘を正室に迎え、その影響も受けながら藩政改革を進める。寛文の飢饉に際しては、困窮者を収容する「御小屋」を設け、食料の支給や医療の提供を行うなど、手厚い救済策を実施した。また刑罰の運用を見直し、領民の生活安定を重視する政治を進めることで、加賀藩における文治的な藩政の充実に力を注いだ。綱紀は学問にも深い関心を寄せ、木下順庵や室鳩巣らを招いて学術を奨励し、古典籍の収集や編纂を積極的に進めた。その膨大な蔵書群は、後に新井白石から「天下の書府」と称えられている。1689年には将軍徳川綱吉から、御三家に準じる格式が認められ、加賀前田家の地位はさらに高まった。政治の安定、領民への配慮、そして学問の振興。武力ではなく、仁政と文化によって百万石の大藩を導いたその生涯は、まさに「文治で泰平を体現する」名君であった。
【政治の部屋|前田綱紀】文治で泰平を体現するNew!!
13東京都
1635-1712を生きた大名。旗本・牧野儀成の子として生まれ、徳川家光の四男であった徳川綱吉に近侍として仕える。綱吉が上野館林藩主として分封されるとこれに従い、奏者番を務めたのち、館林藩家老にまで抜擢された。1680年、綱吉が五代将軍に就任すると、成貞も大名に取り立てられ、翌1681年には江戸幕府において新設された側用人に任じられる。側用人は、将軍の意向を老中へ伝え、また老中の意見を将軍へ届ける役目を担う存在であった。成貞はその初代側用人として、綱吉の最側近に位置し、将軍と幕閣を結ぶ重要な役割を果たした。1684年に大老・堀田正俊が江戸城内で暗殺されると、将軍と老中との仲介役として側用人の重要性はさらに高まり、成貞は幕政の中枢に深く関わることになる。その後、下総関宿藩主として七万石余を領するなど、異例ともいえる昇進を遂げた。一方で、晩年には綱吉の信任が柳沢吉保へ移る中で、政治的な影響力は次第に低下していった。老中のように表舞台に立つことなく、将軍のすぐ側から幕政を支え続けたその生涯は、まさに「側用人として泰平を動かす」にふさわしいものであった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
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