柳生宗矩





Yagyu Munenori (1571-1646)

ようこそ!フリーイラストポートレートと

歴史の停車場いらすとすてーしょん
こちらのページでは江戸時代に活躍した政治家

柳生宗矩 をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

柳生宗矩
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より江戸時代に活躍した政治家として柳生宗矩 イラストポートレートをお届けします

特集中の政治家たち
古墳時代からお届けしています

シューちゃん

明治時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

大正時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

昭和時代に活躍した政治家↓

該当の投稿はありません。

時代区分は、文化庁重要文化指定目録の基準を採用しています。

これまで公開中の政治家はこちら↓

政治家の部屋 Politics

柳生宗矩って

館長

柳生宗矩にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

シリーズ「非戦の統治者たち」の第5話目は、柳生宗矩が登場

館長

本シリーズは、「非戦の統治者」にスポットライトを当てた六人の物語です

こんな背景

シリーズ:非戦の統治者たち

第5回:柳生宗矩〜剣を抜かぬ統治思想〜

今回のシリーズ:「非戦の統治者たち」は…
戦国は、武力だけで動いていたのか

前シリーズ「崩壊と選択 」 では、
何を守り、何を壊し、そして何を選んだのか。

滅びへと向かった六人の意思決定を追いました。

そこには、戦争があり、権力闘争があり、
組織の興亡がありました。

しかし、歴史を動かしたのは、
武力だけだったのでしょうか。

ここで問いを変えてみます。

その問いとは、

「人は、武力以外で人を動かせるのか。」

もう一つの力

戦国から江戸へと向かうこの時代は、
刀や鉄砲だけが「力」だった時代ではありません。

茶の湯が人間関係を整え、
美意識が価値観を共有させ、
兵法が統治の知恵へと姿を変え、
信仰が生き方の基準となり、
作法が社会の秩序を形づくっていました。

人の心を動かし、
価値観を共有させ、
秩序を受け入れさせる。

そのような「目に見えない力」が、
新たな時代を静かに形づくり始めていたのです。

見えない力で統べる

本シリーズで扱うのは、
天下を取った者たちではなく、
大軍を率いた名将でもありません。

今回登場するのは、
人の価値観を変えた者たちです。

彼らは戦場ではなく、
茶室で、
庭園で、
道場で、
そして信念の中で、時代を動かしていきました。

力で従わせるのではなく、
価値観を変えることで社会を動かす。

それは武力による支配とは異なる、
もう一つの統治でした。

安土桃山から江戸へ

この六人が生きたのは、
戦国の論理と江戸の論理が重なり合う時代でした。

古い秩序が崩れ、
新しい秩序が生まれる。

その境界線で、
彼らは武力以外の方法によって、
人と社会をまとめようと試みます。

問われていたのは、
どう勝つかではなく、
どう影響を与えるか、です。

非戦の統治者たち
第1回 千 利休

無言で統べる茶の力

1
第2回 織田有楽斎(長益)

生き延びた静の選択

2
第3回 古田織部(重然)

歪みが生んだ新秩序

3
第4回 小堀遠州(政一)

美で整えた統治秩序

4
第5回 柳生宗矩

剣を抜かぬ統治思想

5
第6回 高山右近

信念を貫く非戦の道

6
問われているのは「影響力」

人はなぜ従うのか、
人はなぜ価値観を共有するのか、
そして、新たな秩序が求められる時代において
社会を動かす力とは何なのか。

武力は人を服従させます。
しかし、 服従は統治ではありません。

本シリーズが見つめるのは、
人の心に働きかけ、
秩序を生み出し、
文化として定着させていく力です。

それは、戦わずに世界を変えた者たちの物語でもあります。

どのような時代を生きたのか

柳生宗矩が生きたのは、
戦国の終焉とともに徳川幕府が成立し、
新たな統治体制が形づくられていく時代でした。

千 利休が、乱世の中で、
茶室という空間に新たな秩序を生みました。

古田織部が、固定化し始めた秩序を、
歪みと破調によって更新しました。

小堀遠州が、その美意識を、
公武の融和を図りながら社会へ定着させました。

これら美の系譜に対し、
宗矩が向き合ったのはさらに根源的な課題でした。

それは、

「人間の争いをどう制御するか」

という問題です。

宗矩は大和国柳生の地に生まれ、
父・柳生宗厳(石舟斎)から新陰流兵法を学びました。

やがて徳川家康に才能を見出され、
将軍家の兵法指南役として登用されます。

家康、秀忠、家光という、
徳川三代の将軍に仕えた宗矩は、
単なる剣豪ではありませんでした。

秀忠から家光への代替わりの時期、
いまだ戦国の気風を残す大名たちの不穏な動きを、
宗矩は、幕府の監察機能を担う立場から見抜き、
網の目のような情報網を巡らせながら、
反乱や対立の芽を未然に摘み取り続けました。

幕府の中枢に身を置きながら、
人を治めるとは何か、
組織を安定させるとは何かを考え続けた、
冷徹な政治家でもあったのです。

何によって人を動かしたのか

宗矩が人を動かしたのは、
武力そのものではありませんでした。

それは、

「兵法という思考法」

でした。

そもそも、戦国の兵法とは、
本来敵を倒すための技術です。

しかし宗矩は、
その本質を別の場所に見出します。

本当に優れた剣とは、
相手を斬ることではなく、
相手に剣を抜かせないこと。

本当に優れた強さとは、
戦いに勝つことではなく、
争いそのものを起こさせないこと。

宗矩はその考えを、
若き将軍・徳川家光に進言していきます。

相手の動きを読む
状況を先に察知する
感情に振り回されない
力を使う前に問題を解決する

それは、一対一の剣術でありながら、
同時に、蔓延る全国の大名たちを、
心理戦でコントロールする政治の技術でもあったのです。

宗矩は、禅僧・沢庵宗彭から学んだ、
「どこにも心を囚われない」という、
精神性を組織運営に応用し、
人の行動や心理を対立の前に手懐けていきました。

この統治者が示した非戦のあり方は

「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」

兵法家伝書によれば、
平和な時であっても、
常に乱世の危険性を忘れないことこそが、
真の兵法であると説いています。

宗矩が示した非戦の統治とは、
この言葉通り、「平穏の中にこそ、次の備えを怠らないこと」でした。

多くの人は、問題が発生してから、
力をもって解決しようとします。

しかし、一度刃を交えれば、
勝者も敗者も傷を負う。

宗矩は違いました。

最も優れた統治とは、
危機を常に想定し、
問題が起きる前にその芽を摘み取ることだと考えたのです。

宗矩にとって兵法とは、
もはや目の前の敵を倒す戦闘技術ではありません。

それは社会の均衡を保ち、
大平の世を長く維持するための、
「備えの知恵」だったのです。

宗矩にとって剣とは、
暴力の象徴ではありませんでした。

むしろ暴力が必要なくなる状態をつくるための道具だったのです。

利休が茶室で、
遠州が美によって社会を調和へ導いたとするなら、
宗矩は、人間の内面にある対立の火種を冷徹に見つめ、
その暴走を事前の備えと仕組みによって未然に防ぎました。

そこに宗矩独自の、
極めて実践的な非戦の統治がありました。

その思想は何を変えたのか

宗矩の思想は、
武士という存在の定義を根底から変えました。

兵法はもはや戦場の技術ではなく、
国家を動かす統治者の「必須の教養」となりました。

将軍家の中枢において、
宗矩の「無刀の理」は、
政治や官僚組織運営の基礎として重視されていきます。

宗矩の示した「活人剣(かつじんけん)」の思想。

それは、人を斬るための剣ではなく、
人を生かすための剣。

力による支配ではなく、
秩序を運用するための知恵でした。

かつて戦場で競い合い、
暴力こそがアイデンティティだった武士たちは、
宗矩が編み出した兵法思想の枠組みの中で、
やがて行政を担い、
社会を運営する「役人(官僚)」へと、
変貌を遂げていくことになります。

剣を抜かないために剣を学ぶ。

その逆説の中にこそ、
宗矩の思想の核心があったのです。

明日は、高山右近

柳生宗矩が示したのは、
争いが起こる前に人と組織を整える、
「理の統治」でした。

しかし、どれほど優れた思想や制度であっても、
人が最後に拠り所とする、
「魂の信念」までを縛ることはできません。

次に登場するのは、
キリシタン大名として知られ、
領地も、地位も、名誉も、
そのすべてを捨てながら、
ただ一つの信仰と信念だけを守り続けた男。

権力にも武力にも依存せず、
自らの生き方そのもので人々に影響を与えた人物です。

明日の最終回、第6回は、
「信念を貫く非戦の道」高山右近の物語をお届けします。

1552(もしくは1553)-1615を生きた武将。摂津を拠点に活躍しながら、キリスト教への帰依という絶対的な信念を軸に生きた異色の統治者。織田・豊臣のもとで重用されるも、禁教政策の中で改宗か追放かを迫られ、すべての地位と領地を捨てる選択を下す。武力や権力ではなく、内面の信仰を拠り所とし続けたその姿勢は、他者の価値観に干渉せずとも人に影響を与えるあり方を示した。最終的には国外へ追放されマニラで没するも、「何を守るか」を最後まで変えなかったその生涯は、非戦の統治における信念の極致であった。
【政治の部屋|高山右近】江戸時代編.3

政治家・新着偉人(It's New)はこちらから

29奈良県
1579-1650を生きた剣豪。柳生宗厳(石舟斎)の孫として大和国柳生の地に生まれ、幼少より祖父から新陰流剣術を学んだ。叔父・柳生宗矩が徳川将軍家の剣術指南役として幕政にも関わり大名へと昇ったのに対し、利厳は江戸の権力中枢に加わる道を選ばず、尾張徳川家に仕えて剣の道を追求し続けた。尾張藩の兵法指南役として新陰流を伝え、その奥義と精神を後世に残すことに力を注ぐ。政治的地位や栄達を求めず、あくまで剣術の本質を極め、一門の技を尾張柳生流として確立したその生涯は、幕府の中枢で活躍した叔父とは異なる道であった。まさに「権力より剣を選ぶ」剣豪であった。
【政治の部屋|柳生利厳(兵庫助)】権力より剣を選ぶNew!!
23愛知県
1542-1597を生きた武将。伊賀の忍びの流れを汲む服部氏の家に、三河で生まれ、若くして徳川家康に仕えた。三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど数々の戦場で武功を重ね、槍の名手として「鬼の半蔵」の異名で知られる。一方で伊賀の者たちを統率し、情報収集や警護などの任務でも家康を支え続けた。1582年、本能寺の変直後の「伊賀越え」では、家康の危険な逃避行に際して伊賀衆の協力を取りまとめ、安全な帰還に大きく貢献している。武功を誇示して権勢を求めることなく、常に主君の背後にあって影から支えることに徹したその姿は、表舞台の栄光より忠実な奉仕を選んだ生き方を物語る。まさに「表舞台を避けて生きる」武士であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を愛知県とさせていただきます。
【政治の部屋|服部半蔵正成】表舞台を避けて生きるNew!!
05秋田県
1539-1587を生きた武将。出羽国北部を治める安東氏の当主として、檜山・秋田を中心に勢力を築いた。愛季は南部氏や由利十二頭など周辺勢力との緊張関係の中で領国をまとめ、出羽北部随一の戦国大名へと成長する。一方で、蝦夷地との交易や日本海を通じた海運を重視し、遠隔地との経済的結びつきを強めることで独自の勢力基盤を確立した。織田信長が天下統一へ向けて台頭すると使者を送り、北方の特産品などを献上して関係を築くが、あくまで従属ではなく北方大名としての自立性を維持し続けた。中央の政局に深く関わることを避け、北の地で独自の秩序と経済圏を築き上げたその姿は、まさに「中央権力と距離を保つ」戦国大名であった。いらすとすてーしょんでは、出身地を秋田県とさせていただきます。
【政治の部屋|安東愛季】中央権力と距離を保つNew!!
26京都府
1596-1680を生きた第108代天皇。江戸幕府による朝廷統制が強まる時代にその地位を担う。徳川秀忠の娘・和子(東福門院)を女御として迎え、徳川家と深い姻戚関係を結ぶも、1627年、幕府の意向を無視して寺院に紫衣(しえ)着用を許可したことが問題視され、幕府がこれを撤回させる「紫衣事件」が発生し、朝廷の権威は大きく損なわれた。この一件に強い不満を抱いた天皇は、1629年に幕府へ何ら相談せぬまま突如譲位し、娘の明正天皇へ皇位を譲るという異例の行動に出る。以後も上皇として長きにわたり文化・儀礼の面で朝廷の存在感を保ち続けた。幕府の統制に抗い、譲位という形で意思を示したその生涯は、まさに「紫衣事件に抗う」天皇であった。
【政治の部屋|後水尾天皇】朝廷権威を守り続けるNew!!

政治の部屋へようこそ

出身国別、都道府県でお届けしています

イラストポートレートSyusukeGallery政治の部屋Politics
政治家の部屋 Politics

政治の部屋PoliticsへようこそSyusuke Galleryよりイラストポートレートをお届けさせていただきます

広告コーナー

いらすとすてーしょんはGoogle AdSenseの収益により運営させていただいております。
皆様のご理解をよろしくお願い申し上げます。

広告
シューちゃん

いらすとすてーしょん

もっと偉人たちに出会う

気になるジャンルから、これまでに紹介した偉人たちのイラストポートレートをお楽しみください。

ジャンル一覧を見る
偉人たちの人生に、次の一歩のヒントを。いらすとすてーしょん - フリーイラストポートレートと歴史の停車場

世界の偉人たちをフリーイラストポートレートでお届けします。

ただいまの公開中のシリーズ