守貞親王(後高倉院)





Prince Morisada (1179-1223)

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守貞親王(後高倉院)をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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守貞親王(後高倉院)
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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守貞親王(後高倉院)って

館長

守貞親王(後高倉院)にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

出家して余生は静かに俯瞰しようと決めていたはずなのに、思いがけず再び政治のど真ん中へ呼び戻されたのが、守貞親王だったんだね

館長

その姿は、怒りも激情も持たず、ただ静かに、粛々と、丁寧に、乱後の朝廷再建に向き合った2年間だったと伝わっています

こんな背景

シリーズ:承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場

第4回: 守貞親王(後高倉院)〜乱の果てに、図らずも「治天の君」となった父〜

今回のシリーズ:「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」は…

壇ノ浦の海で平家が滅び、壇上に立つべき幼い安徳天皇 が沈んだとき、日本の王権は深い傷を負いました。
その傷を抱えたまま、平安的な王権を守り抜こうとしたのが、

平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

後鳥羽院 でした。

文化に秀で、武芸にも通じ、「天皇の理想」を胸に抱いた希代の王は、平家滅亡後の新しい世界で、初めて真正面から「武士の国」と向き合うことを迫られました。

一方その頃、鎌倉では源 頼朝 亡きあと、カリスマを失った幕府が内部抗争に揺れ、そのすき間をぬうように北条氏が着実に台頭。「武士が国を治める秩序」をさらに築き上げ、守り固めようとしていました。


対する京では…
後鳥羽院がそのわずかな揺らぎを見逃しません。

「今こそ、武士に奪われた権威を取り戻す時である。」

院は自ら軍事力を整え、文化の力で御家人たちをも魅了し、しかし確かな意志で「帝の逆襲」の準備を進めていきます。

朝廷と武士。
王権と武家政権。
互いの正義が譲れぬ一線を越えたとき、両者は避けられない衝突へ向かっていきました。

そしてその過程で、後鳥羽院の息子たち、そして孫たちがそれぞれの「胸に帝のプライド」を宿し、自らの運命を賭けて歴史の舞台に立つことになります。

1221年。
日本史の転換点 「承久の乱」 がついに幕を上げる。

このシリーズでは、後鳥羽院の影を受け継いだ11人の天皇・院 の物語を追っていきます。
華やかな権力争いではない。
勝者の論理でもない。

これは、武士の国を前にして、帝たちが「何を守ろうとしたのか」。
その心の軌跡を描く、大いなる劇場の物語です。

「承久の乱 〜 天皇たちの運命劇場」11人のストーリー

第1回 土御門天皇
争いを拒み、自ら流刑を望んだ「静」の帝

第2回 順徳天皇
父の理想を継ぎ、佐渡に燃え尽きた「熱」の帝

第3回 仲恭天皇
在位わずか78日、運命に翻弄された幼君

第4回 守貞親王(後高倉院)
乱の果てに、図らずも「治天の君」となった父

第5回 後堀河天皇
鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴

第6回 四条天皇
12歳で幕を閉じた、あまりに儚き治世

第7回 後嵯峨天皇
皇統分裂の種を蒔いた、苦渋の調停者

第8回 後深草天皇
持明院統(北朝)の祖、不遇を抱えた長子

第9回 亀山天皇
大覚寺統(南朝)の祖、理想を追った次子

第10回 後宇多天皇
二つの皇統を束ね、父の理想に生きた院政の主

第11回 伏見天皇
持明院統の誇りを守り、文化に光を求めた帝

父は、高倉天皇

1179年。
守貞親王は、高倉天皇 の第二皇子として生まれました。
その幼少期は決して平穏ではありませんでした。

なぜなら、幼い守貞を育てたのは、父でも母でもなく「平家」。
平 知盛 の正室・治部卿局のもとで養育された第二皇子は、平家に連なる皇子として扱われ、1183年、平家都落ちの際には幼い安徳天皇に従い西国へと落ち延びていきます。

つまり、

生まれたときから「政争の渦中」にあった皇子

でした。

平家が滅びると、守貞は京へ戻り、1189年、親王宣下。
のちに持明院宮を号し、静かに皇族としての道を歩み始めます。

皇位から遠ざかる日々

皇位は、弟・後鳥羽天皇 へ。
さらに後鳥羽の皇子・土御門 、そして順徳 へと継がれ、
やがて守貞自身は、皇位から遠く外れた存在となっていきます。

1212年。
ついに出家し、「行助入道親王」と名乗ります。

そこには、自らの政治的可能性が閉ざされたことへの諦観。
同時に、静かな受容があったと伝わります。

しかしこの「退き方」こそが、8年後の「行助入道親王」の運命を大きく変えます。

承久の乱と守貞親王

1221年、承久の乱が勃発。
後鳥羽・順徳は挙兵し、敗北。
土御門とともに三上皇全員が流罪となります。

皇統は、ここで完全に「途絶える」はずでした。
しかし、その時、ただ一人残された皇位継承者がいました。

行助入道親王の第三皇子、つまり守貞親王の子・茂仁王(のちの後堀河天皇 )です。
この皇子こそが、承久後の朝廷をつなぐ、唯一の糸だったのです。

前例のなき指名

幕府は茂仁王を即位させると同時に、極めて異例の決断を下します。

皇位に就いたことのない父・守貞親王を、太上法皇(上皇)へ格上げする。


そして守貞に、「治天の君(朝廷の実質的統治者)」として院政を行わせたのです。
それは、朝廷を支えるために必要だった最後の切り札でした。

守貞自身が望んだわけでも、権力を求めたわけでもありません。
ただただ、時代に請われて必要とされ、そこへ押し出されたのです。

静かな治政

太上法皇となった守貞(行助)は、承久の乱後の荒れ果てた朝廷を整え、公武の関係修復に力を尽くします。

怒りも激情も持たず、ただ静かに粛々と、かつ丁寧に、乱後の再建に取り組む姿は、後鳥羽院の「不屈の帝」とは姿とは正反対。

この姿こそが、朝廷再建に不可欠だったと考えれています。
しかし、その治政はわずか二年で幕を閉じます。
1223年。
守貞親王は薨去。
その後「後高倉院」の院号が贈られました。

皇位に就くことなき上皇

非常時の空白、を埋めるために上皇へと押し上げられた治政者。
承久後という異常な時代が生んだ、静かで、穏やかで、しかし確かな治政の人。
それが守貞親王でした。

明日は、後堀河天皇

父・守貞親王(後高倉院)が「治天の君」として乱後の再建にあたり、その背中のすぐそばで幼い新帝・後堀河天皇は 「武士政権が選ぶ最初の天皇」という、これまでにない重い使命を背負っていくことになります。 

次回の承久の乱 〜天皇たちの運命劇場〜は、「鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴」 後堀河天皇の物語です。

1212-1234を生きた政治家(第86代天皇)。後の後高倉院の第三皇子。承久の乱で後鳥羽・順徳・土御門の三上皇が配流され、仲恭天皇が廃されたのち、幕府はその直系を避け、1221(承久3)年、わずか10歳で即位。幼さゆえ政務は父・後高倉院の院政のもとで進められ、治世は乱後の後始末と公家社会の再編が中心となった。在位中には藤原定家に「新勅撰和歌集」の編纂を命じるなど文化への関心も見せたが、政治は幕府が主導しており、天皇は「新しい秩序の象徴」としての役割にとどまった。1232(貞永元)年、幼い四条天皇に譲位。在位11年ののち、23歳で崩御。後鳥羽院の時代が終わり、鎌倉幕府が王権を事実上掌握した転換点を体現した帝であった。
【政治の部屋|後堀河天皇】鎌倉が選んだ、新しい秩序の象徴

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政治の部屋
1846-1866を生きた徳川十四代将軍。紀州藩主・徳川斉順の子として、父の死から16日後に江戸の紀州藩邸で生まれ、満2歳で紀州藩主を継いだ。1858年、将軍継嗣問題で井伊直弼ら南紀派の支持を受け、満12歳で第14代将軍に就任する。1862年には孝明天皇の妹・和宮を御台所に迎え、朝廷と幕府の融和を図る公武合体を象徴する存在となった。翌年には家光以来およそ230年ぶりとなる上洛を果たし、朝廷からの強い攘夷要求を受けて幕府として攘夷実行を約束する。続く上洛では将軍として初めて海路を用いるなど、朝廷との関係維持に奔走した。勝海舟の進言を容れて神戸海軍操練所の設置を認めるなど、新しい時代への理解も示している。1866年、第二次長州征伐のため滞在していた大坂城で病に倒れ、満20歳で死去した。和宮との仲は睦まじく、側室を置かなかったと伝えられる。家茂の死を知った勝海舟は日記に「徳川家、今日滅ぶ」と記した。若くして朝廷と幕府の狭間に立ち続け、その調停に心身を削ったその生涯は、まさに「公武合体に若き命を賭す」将軍であった。
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政治の部屋
1824-1858を生きた徳川十三代将軍。文政7年(1824年)、第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城西の丸に生まれる。多くの兄弟が幼くして亡くなるなかで唯一成人し、将軍後継者となった。幼少から病弱であったため、その器量や健康状態を不安視する声もあったが、老中・阿部正弘らの支持を受けて世子の地位を固めた。1853年、黒船来航の混乱のさなかに家慶が死去すると、同年中に第13代将軍に就任する。翌年には日米和親条約が締結されたが、家定自身は病状が重く、幕政は阿部正弘、ついで堀田正睦らが主導した。御台所に天璋院(篤姫)を迎えるも実子には恵まれず、将軍継嗣をめぐって井伊直弼ら南紀派の推す徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬・徳川斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が激しく対立する。1858年、家定は諸大名を前に慶福を後継者とする意向を示し、続いて一橋派の処分を発表した。これは病弱で政治的発言の少なかった家定が、自ら後継問題について明確な意思を示した数少ない場面であった。その翌日、34歳で死去する。病弱の身で黒船来航後の国難と将軍継嗣問題の渦中に置かれたその生涯は、まさに「病弱の将軍として継嗣問題に揺れる」将軍であった。
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政治の部屋
1793-1853を生きた徳川十二代将軍。寛政5年(1793年)、第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城に生まれる。兄の早世により将軍後継者となり、1837年、44歳で第12代将軍に就任したが、実権はなお大御所・家斉が握り続けていた。家斉の死後、老中・水野忠邦を登用して天保の改革を進めるものの、諸方面の反発を受けて挫折。その後は阿部正弘を重用し、海防強化や政務改革に取り組んだ。家臣の進言に「そうせい」と応じることが多かったことから「そうせい様」と渾名された一方、人材登用では優れた眼識を発揮した。1853年、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、家慶はすでに病床にあり、阿部正弘の報告に「斉昭と相談せよ」と述べるにとどまった。それから間もない同年、家慶は60歳で死去し、子の家定が跡を継いだ。徳川の泰平が終わりを迎え、幕末への扉が開かれる歴史の転換点に立ち会ったその生涯は、まさに「黒船来航に立ち会う将軍」であった。
【政治の部屋|徳川家慶】黒船来航に立ち会う将軍New!!
13東京都
1773-1841を生きた徳川十一代将軍。徳川治済の長男として生まれ、急逝した将軍世子・家基に代わり、十代将軍・家治の養子となり、1787年に13歳で第11代将軍へ就任した。当初は松平定信を登用して寛政の改革を進めたが、やがて定信を退け、自ら政権運営の主導権を握るようになる。家斉の治世は約50年に及び、歴代将軍最長を誇った。その時代には化政文化が大きく花開き、江戸は未曽有の繁栄を迎える。一方で、大奥の拡大や側近政治、相次ぐ婚姻政策による人事介入、財政規律の緩みなどにより、幕府の統治基盤は次第に弱体化していった。1837年には大塩平八郎の乱やモリソン号事件が相次ぎ、長く続いた泰平の裏側で幕藩体制のほころびが表面化する。同年、家斉は将軍職を家慶に譲ったが、大御所として実権を保ち続けた。その五十年の治世は、化政文化を大きく花開かせる一方で、幕府の規律を緩ませ、幕末へとつながる土壌を形づくった。まさに「50年の治世で幕府を緩ませる」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家斉】50年の治世で幕府を緩ませるNew!!

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