後朱雀天皇





Emperor Go-Suzaku (1009-1045)

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後朱雀天皇をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
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後朱雀天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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後朱雀天皇って

館長

後朱雀天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

その治世は、立ちはだかる藤原頼道に対して、静かに時代を見つめ、後世に光を繋ごうとした感じだったのかなぁ

館長

崩御の直前、頼通の反対を押し切って藤原氏と血縁の薄い息子(後の後三条天皇)を皇太子に推したことで、鉄壁だった摂関政治に大きな風穴があきます

こんな背景

シリーズ:摂関政治に翻弄された五人の天皇

第4回:後朱雀天皇 〜静かな在位の奥で時代のうねりを見つめる〜

今回のシリーズ:「摂関政治に翻弄された五人の天皇」は…

平安京の雅が最も華やぎ、同時に天皇の権威がもっとも脆く揺らいだ時代。「外戚」という巨大な影が宮廷を覆い、帝たちの運命さえ左右した約100年の物語です。

藤原氏が摂政・関白として権力の頂点に立ち、天皇は幼くして即位し、あるいは成人しても政治の主導権を握れず、「外戚」という名の力に運命を委ねざるを得ませんでした。しかし、決して藤原氏の単なる操り人形ではありませんでした。

ある帝は文化を愛して雅の世界を極め、ある帝は病と孤独の中で尊厳を守ろうとし、ある帝は見えない圧力に抗い、そしてある帝は静かに、しかし確かに時代の転換点へと駒を進めす。

摂関政治の光と影の狭間で、五人の帝が何を思い、何に耐え、何を次代へ託したのか。藤原氏の絶頂期から終焉の予兆まで、「帝」という存在がもっとも翻弄された時代を、五つの治世から紐解いていきます。

全5回でお届けします。

第1回 一条天皇
国風文化の黄金期を育て、外戚に囲まれながら気品と知性で時代を照らした帝
第2回 三条天皇
誇り高き意思を貫こうとしながら、眼病と道長の圧力に押し潰された帝
第3回 後一条天皇
道長政治の象徴となった幼帝は、摂関支配の集大成を生きた帝
第4回 後朱雀天皇
静かな在位の裏で、武士台頭と荘園拡大という変動の波を迎えた帝
第5回 後冷泉天皇
摂関政治最終章。藤原氏の綻びと、院政への扉が開く転換点に立った帝

幼帝後一条天皇が若くしてこの世を去ると、その玉座に静かに歩み寄った帝がいました。それが 第69代・後朱雀天皇(1009–1045)です。兄・後一条天皇の後を継ぎながらも、華やかな宮廷の奥で、時代の兆しをただ静かに見つめ続けた、そんな「静寂の在位」の物語をお届けします。

「大人の帝」と、揺るぎない壁

後朱雀天皇は、一条天皇と藤原彰子の第三皇子として誕生しました。兄・後一条天皇の崩御を受け、26歳で即位します。 久々の「成人の帝」の誕生でしたが、政治の景色が変わることはありませんでした。目の前には、父・道長の権力を完全に引き継いだ藤原頼通という、盤石にして巨大な外戚の壁が立ちはだかっていたからです。

誠実さと、選ばざる「静観」

後朱雀天皇は、誠実で温和、争いを好まない性格だったと伝わります。三条天皇のように意志をぶつけることもなく、一条天皇のように文化の力で時代を牽引することもなく、あくまで慎ましく公務を全うしようと努めました。

その穏やかさゆえ、摂関政治という巨大な権力を揺り動かすことはありません。政治の主導権は、依然として藤原頼通が一手に握り続け、帝は「儀礼の中心」としての役割を粛々と果たしていきました。

表面下のうねり、武士の足音

後朱雀天皇の治世は、しばしば「平穏」と語られます。しかしその平穏は、古い仕組みが限界を迎えつつある危うい土台の上に成り立っていました。

  • 荘園の拡大
    貴族や寺社の私有地が増え、国家の基盤である公地公民制が実質的に崩壊。
  • 地方の混乱
    行政が弱体化し、治安が悪化。
  • 武士の台頭
    平忠常の乱の鎮圧などを通じ、源氏を中心とした「武士」の存在感が無視できないものに

これらは、のちの戦乱、そして武士が歴史の主役へと変貌していく序章でした。後朱雀天皇は、その変革の波を確かに感じながら、静かに時代を見つめていたのかもしれません。

最後に託した「変革の種」

しかし、ただ流されるだけの帝ではありませんでした。崩御の直前、頼通の反対を押し切って、藤原氏を外戚に持たない親王(のちの後三条天皇)を皇太子に据えるという決断を下します。それは、盤石だった摂関政治に初めて「くさび」を打ち込んだ、温和な帝の最期の、そして最大の意志でした。

明日は、摂関政治最終章。藤原氏の綻びと、院政への扉が開く転換点に立った後冷泉天皇です。

1008–1036を生きた政治家(第68代天皇)。一条天皇の皇子として生まれ、三条天皇の譲位を受けて8歳で即位。道長にとって、自身の娘・彰子が産んだ念願の孫の即位であり、政務は道長が摂政として完全に掌握。後一条天皇の治世は、「道長政治」の集大成ともいえる時代となる。 病弱で静かな性格だった後一条天皇は、宮廷の激しい権力闘争から距離を置かざるを得ず、政治的主導権は終始外戚である藤原氏に握られた。一方で、宮廷文化は「栄花物語」に描かれるような空前の繁栄を迎え、儀式・年中行事もこの時期に整えられた。 しかし、繁栄の裏では、道長の息子・頼通が後継として台頭し、摂関家の権力世襲が盤石に築かれた。後一条天皇の治世は、摂関政治が最も安定し、かつ強大な権力体系として完成を見た時代の象徴ともいえる。
【政治の部屋|後一条天皇】平安時代編.30
1025-1068を生きた政治家(第70代天皇)。後朱雀天皇の第一皇子。父の譲位を受けて19歳で即位するも、政治の主導権は引き続き藤原頼通が握り続け、天皇の発言力は限定的であった。摂関政治は制度として完全に固定化し、国政は天皇の意思よりも摂関家の家格と外戚関係によって動く仕組みが完成していた。宮廷文化は依然として華やかで、和歌や絵画は高い水準を保ったものの、荘園の増加による公地公民制の崩壊、武士団の成長、地方行政の弱体化など、のちの社会変動を予感させる兆しは前政権期よりも明確に現れ始めた。頼通の娘である皇后・寛子との間に皇子が生まれなかったことは、長らく続いた藤原氏外戚支配の構造に大きな綻びを生じさせ、摂関政治が究極の形に到達したと同時に、次代の後三条天皇、そして「院政」へと続く新時代の幕開けを告げる平安中期の歴史的転換点となった。
【政治の部屋|後冷泉天皇】平安時代編.32

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13東京都
1667-1701を生きた大名。播磨赤穂藩浅野家の三代藩主として江戸鉄砲洲の上屋敷に生まれ、わずか九歳で家督を継いだ。朝鮮通信使や勅使の饗応役を幾度か務め、良好な藩政や治水事業への尽力によって、当時の評判記でも一定の評価を受けている。しかし1701年、勅使饗応の指南役であった高家・吉良義央との間に生じた遺恨から、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて吉良へ斬りかかるという前代未聞の刃傷に及ぶ。将軍・徳川綱吉は朝廷との儀式を乱したことを重く見て、取り調べもそこそこに即日切腹と赤穂藩五万石の改易を申し渡した。一方で吉良への処分は比較的軽微なものであったため、この裁定は赤穂側から不公平なものと受け止められた。やがてこれに納得できない赤穂の遺臣たちは討ち入りを決行し、後世まで語り継がれる赤穂事件へと発展していく。真意も語られぬまま、一瞬の刃傷によって家と家臣団の運命を一変させたその生涯は、まさに「一瞬で泰平に裂け目を刻む」大名であった。
【政治の部屋|浅野長矩】一瞬で泰平に裂け目を刻むNew!!
22静岡県
1605?-1651を生きた軍学者。出自には諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたと伝えられる。江戸へ出て軍学者・楠木不伝に師事し、その跡を継いで「張孔堂」と称する軍学塾を開くと、旗本や諸藩士など数千人ともいわれる門弟を集める人気を博した。1651年、三代将軍・徳川家光が死去し、幼い家綱が四代将軍に就くと、正雪は浪人たちを率いて駿府城や久能山を奪取し、江戸でも放火や要人襲撃を行う反乱計画を企てる。しかし挙兵直前に計画が露見し、駿府へ逃れた正雪は捕り方に囲まれる中、自ら命を絶った。この由井正雪の乱(慶安事件)は、相次ぐ大名改易によって増加した浪人たちの不満を背景としていたとされる。事件そのものは未遂に終わったものの、幕府に浪人問題の深刻さを認識させる契機となり、後の末期養子の禁の緩和などにも影響を与えたと考えられている。泰平の世の裏に潜んでいた不満と矛盾を白日のもとにさらしたその生涯は、まさに「泰平の影に反旗を翻す」軍学者であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を静岡県、出生年を1605年とさせていただきます。
【政治の部屋|由井正雪】泰平の影に反旗を翻すNew!!
13東京都
1698-1769を生きた儒学者であり蘭学者。江戸日本橋の魚問屋の家に生まれ、若くして儒学者・伊藤東涯に学び、学問を修めた。その才能を江戸町奉行・大岡忠相に認められ、幕府の書物閲覧を許されると、京都遊学時代に得た知識をもとに、飢饉に強い救荒作物としてのサツマイモ栽培を幕府へ提言する。八代将軍・徳川吉宗の享保の改革が進む中、昆陽の提案は採用され、下総国馬加村や小石川薬園などで試作が行われた。その成果によって、それまで主に薩摩藩領で栽培されていたサツマイモは、やがて関東各地へと広まっていく。昆陽は著書『蕃薯考』を著し、栽培法や利用法を広く紹介した。サツマイモは後の飢饉において多くの人々を救う作物となり、昆陽は「甘藷先生」の名で親しまれるようになる。また、古文書の収集や研究にも尽力し、さらにオランダ語の習得にも取り組んだ。幕府から長崎での蘭語研究を命じられるなど、日本蘭学の先駆者の一人として知られ、後に『解体新書』の翻訳に携わる前野良沢ら後進の学者たちが活躍する土台を築いた。戦乱ではなく、学問と実用によって人々の暮らしを支える。一つの作物を通じて飢饉という泰平の綻びを補い、民衆の命を守ろうとしたその生涯は、まさに「甘藷で泰平を繕う」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|青木昆陽】甘藷で泰平を繕うNew!!
13東京都
1657-1725を生きた学者・政治家。貧しい浪人の子として江戸に生まれ、独学で儒学を学んだのち、朱子学者・木下順庵に入門した。優れた学識を認められた白石は、順庵の推挙によって甲府藩主・徳川綱豊に仕える。綱豊が後に六代将軍・徳川家宣となると、白石は側用人・間部詮房とともに幕政に参与し、後に「正徳の治」と呼ばれる一連の改革を推し進めた。綱吉時代の生類憐みの令を整理・廃止し、質の低下していた貨幣を慶長金銀の水準へ近づける改鋳を行うなど、幕府財政と社会秩序の立て直しに取り組む。また朝鮮通信使の待遇を簡素化し、将軍の外交上の称号についても見直しを進めるなど、対外関係の整備にも力を注いだ。さらに、日本へ密航してきた宣教師シドッチを尋問し、その知見をもとに『西洋紀聞』や『采覧異言』を著している。 これらの著作は、当時としては極めて先進的な海外知識の記録として知られる。しかし、家宣、家継という二代の将軍を支えたのち、徳川吉宗の将軍就任によって政治の中枢を離れることとなった。それでも白石は、学者として筆を執り続け、『読史余論』をはじめとする数多くの著作を後世に残している。旧来の慣習に安住することなく、学問によって政治の理論を築き、 その理論を実際の政策へ反映させようとしたその生涯は、まさに「学問で泰平を再設計する」にふさわしい学者であった。
【政治の部屋|新井白石】学問で泰平を再設計するNew!!

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