島津義弘





Shimazu Yoshihiro (1535-1619)

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島津義弘 をお楽しみください

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教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

島津義弘
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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館長

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シューちゃん

シリーズ「戦場と武断の現実」最終回となる第5話は、島津義弘 が登場

館長

本シリーズは、泥臭くも苛烈な「武断の歴史」に迫る五人の物語です

こんな背景

シリーズ:戦場と武断の現実

第5回:島津義弘 〜退却戦に見る鬼島津〜

今回のシリーズ:「戦場と武断の現実」は…
理想だけでは、生き残れない時代

時は、戦国時代。

天下統一への道が開かれる一方で、
人々は絶え間ない戦乱の中に生きていました。

領地を守るため。
主君に尽くすため。
家名を残すため。

武士たちは槍を取り、馬を駆り、
幾度となく戦場へ向かいます。

しかし彼らの人生は、
単純な勝者と敗者の物語ではありませんでした。

忠義と現実。
名誉と生存。
理想と打算。

その狭間で揺れ動きながら、
武将たちは厳しい選択を迫られていきます。

華々しい武勇の陰には、
敗北や苦悩、そして時代に翻弄される現実がありました。

そ本シリーズでは、
そうした「戦場の現実」を生きた人々の姿を追います。

「武断」とは何か

戦国時代において、
武力は単なる暴力ではありませんでした。

領国を守る力。
家臣を従える力。
そして、自らの存在を証明する力。

戦場で功績を挙げることは、
家柄に恵まれない者にとって、
自らの運命を切り拓く数少ない手段でもありました。

一方で武力は、
人々に残酷な決断も迫ります。

昨日の味方が今日の敵となり、
主君への忠義と、家の存続が相反し、
勝者であっても、新しい時代の中で居場所を失う。

戦国武士たちは常に、
理想だけでは割り切れない現実と、
向き合っていたのです。

戦場が映し出す現実

歴史に名を残した武将たちは、
決して無敵の英雄ではありませんでした。

滅びゆく主家のために戦った者。
主君と天下の間で選択を迫られた者。
武功によって身を立てた者。
栄光の頂点から転落した者。
敗北の中で真価を示した者。

その歩みはそれぞれ異なります。

しかし共通しているのは、
戦場という極限状態の中で、
自らの信念と向き合い続けたことでした。

そこには戦国という時代の、
美しさと残酷さの両方が映し出されています。

戦場と武断の現実
第1回 山中鹿介幸盛

尼子再興に命を懸ける

1
第2回 中川清秀

主君と天下の狭間で

2
第3回 加藤嘉明

武功が拓いた立身

3
第4回 福島正則

栄光と失脚の果てに

4
第5回 島津義弘

退却戦に見る鬼島津

5
武士たちは何のために戦ったのか

戦国の世は終わり、
やがて徳川幕府による長い平和の時代が訪れます。

しかし、その平和は突然生まれたものではありません。

無数の戦い。
無数の選択。
そして無数の犠牲。

それらの積み重ねの上に築かれたものでした。

彼らは何を守ろうとし、
何を失い、何を残したのか。

戦場の栄光だけでは語れない、
武断の時代を生きた五人の物語。

その光と影を見つめながら、
戦国という時代の現実に迫っていきます。

どのような時代を生きたのか

島津義弘が生きたのは、
戦国大名たちが覇を競う乱世から、
豊臣秀吉による天下統一、
そして徳川幕府による泰平の世へと移り変わる激動の時代でした。

薩摩国の戦国大名・島津氏の一族として生まれた義弘は、
兄である島津義久を支えながら、
九州各地の戦場を駆け抜けます。

当時の島津氏は、
薩摩・大隅・日向を基盤に勢力を拡大し、
九州制覇を目前とするほどの強勢を誇っていました。

義弘はその中心で数々の戦いを指揮し、
少数で大軍を破る巧みな用兵によって、
名声を高めていきます。

木崎原の戦いや耳川の戦いでは、
島津軍の精強さを天下に知らしめました。

しかし、九州統一の夢は、
秀吉による九州征伐によって潰えることとなります。

その後は豊臣政権に従い、
さらに関ヶ原の戦いという天下分け目の決戦を迎えます。

義弘が生きた時代とは、
勝利によって領土を広げる戦国の論理と、
新たな天下秩序が衝突する時代だったのです。

この人物が向き合った「戦場の現実」とは

義弘が向き合った戦場の現実とは、

「勝てない戦を、いかに生き抜くか」

という極めて苛酷な課題でした。

戦国武士は勝利によって評価されます。

しかし戦場においては、
常に勝者となれるわけではありません。

むしろ時として、
圧倒的に不利な状況の中で、
家臣や一族を生還させる決断こそが求められました。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いにおいて、
義弘は当初、徳川家康方として上洛しましたが、
情勢の変化によって立場が不安定となり、
やがて、石田三成率いる西軍へ加わることになります。

西軍に属したものの、
三成らとの間には十分な連携や信頼関係はなく、
実際の戦局も次第に東軍有利へと傾いていきました。

やがて西軍敗北が決定的となると、
義弘の率いる島津軍は敵中深くに孤立してしまいます。

味方は崩れ、
周囲を数万の敵軍に囲まれる。

普通であれば降伏か全滅を待つしかない状況でした。
義弘が向き合った現実は、
まさに戦国武将にとって最悪の局面だったのです。

この人物が示した「武断の選択」とは

義弘が示した武断の選択とは、

「敗北を認めたうえで、生き残るために戦うこと」

でした。

関ヶ原において義弘は、
撤退のため敵陣中央を突破するという、
常識外れの決断を下します。

島津軍はわずかな兵力で、
徳川軍の正面へ突撃を敢行しました。

この退却戦は後に、
「島津の退き口」
として語り継がれることになります。

島津豊久をはじめ、
多くの将兵が殿を務めて命を落としました。

家臣たちは次々と敵を引きつけ、
自らを犠牲にしながら義弘の脱出路を切り開いていきます。

義弘自身も馬を走らせながら戦場を離脱し、
伊勢から海路を経て薩摩へ帰還することに成功しました。

この選択は勝利ではありません。
しかし、滅亡寸前の状況から島津家そのものを救う決断でした。

戦場においては、
死を美化するだけでは家を守ることはできません。

義弘は生き残るために退くという、
極めて現実的な武断を示したのです。

その生涯は何を残したのか

関ヶ原の戦いの後、
多くの西軍大名が改易や減封に追い込まれました。

しかし島津氏は、
奇跡的ともいえる「本領安堵(領地不変)」を勝ち取ります。

これは単なる懇願によるものではありませんでした。

本国を守る兄・義久は、

「関ヶ原への参陣は義弘個人の判断である」

と、政治的に釈明しつつ、
薩摩防衛の軍備を徹底的に固めて、
徳川軍との全面対決をも辞さない構えを見せたのです。

「下手に追討すれば莫大な痛手を負う」

家康にそう悟らせた「武力による強烈な牽制」と、
「粘り強い外交交渉」こそが、
滅亡の危機から島津家を守り抜いた大きな要因でした。

義弘自身も後年、
家康への謝罪と講和に尽力し、
以後、薩摩にあって後進の育成や、
藩政の安定に務め、
1619(元和5)年、その生涯を閉じます。

島津義弘の名が後世まで語り継がれる理由は、
単なる武勇だけではありません。

絶望的な敗北の中で冷静さを失わず、
家を存続させるため最善の判断を下したことにあります。

戦国武将は勝利者だけではありません。

敗北を経験しながらも、
なお生き残り、未来へ繋げた者もまた歴史を動かしました。

島津義弘の生涯は、
戦場とは敵を倒す場所であると同時に、
守るべきもののために退く、
勇気が試される場所であることを教えています。

その姿はまさに、
「退却戦に見る鬼島津」
の名にふさわしいものであり、
戦国武士の強さと現実主義を今に伝えているのです。

シリーズ「戦場と武断の現実」が語ったもの

尼子再興という、
悲願に殉じた山中鹿介幸盛

主君への忠義と、
一族の未来の狭間で決断した中川清秀

武功によって、
立身出世を果たした加藤嘉明

栄光の頂点から、
時代の変化に呑み込まれた福島正則

そして敗北の中で家を守り抜いた島津義弘。

彼らの人生はそれぞれ異なります。

しかし共通しているのは、
理想だけでは生きられない、
戦国の現実と向き合い続けたことでした。

戦場とは勇者が輝く舞台であると同時に、
苦悩と決断を迫られる場所でもありました。

勝者にも敗者にも、
それぞれの覚悟と現実があったのです。

五人の武将たちが残した足跡は、
戦国という時代の光と影、
そして「武断」とは何であったのかを、
今なお私たちに問いかけ続けています。

明日からは、新シリーズ

「戦国の嵐が吹き荒れ、新たな秩序と時代が立ち現れる時。」

表舞台の英雄たちの陰で、
静かに、しかしたしかな足取りで、
政権や家を支え続けた者たちがいました。

武力だけで天下は治まらない。
合戦の勝利だけでは民は潤わない。

時代の転換点において、
自らの立場と役割を見極め、
主君を補佐し、組織をまとめ、
新たな体制の土台を築き上げた人々。

彼らは天下人ではありません。

しかし、その知恵も、
調整力も、
決断もなければ、
歴史の大きな流れは成り立たなかったのです。

明日から始まる新シリーズは、
「体制を支えた者たち」。

戦国の終焉から江戸幕府の安定期にかけて、
織田・豊臣・徳川という、
時代の巨大な枠組みを陰から支えた九人の軌跡を辿ります。

第1回は、
「現実外交で大和を支える」 筒井順慶の物語に迫ります。

1549-1584を生きた武将。大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、戦乱の続く大和国の統治にあたった。当時の大和は松永久秀の侵攻や国人勢力の対立によって混乱が続いており、順慶は長年にわたり久秀と争いながら勢力の維持に努める。織田信長が畿内で台頭するとこれに従い、大和支配の中核を担う存在となった。1582年の本能寺の変では、明智光秀と羽柴秀吉の間で態度を決めかねたことから「洞ヶ峠を決め込む」の語源として知られるが、実際には軽率に動かず情勢を慎重に見極めた末に秀吉方へ与している。英雄的な武功よりも、現実的な判断と外交的な駆け引きによって家と領国の存続を優先したその姿は、まさに「現実外交で大和を支える」役割を果たした武将であった。
【政治の部屋|筒井順慶】現実外交で大和を支える

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29奈良県
1549-1584を生きた武将。大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれ、幼くして家督を継ぎ、戦乱の続く大和国の統治にあたった。当時の大和は松永久秀の侵攻や国人勢力の対立によって混乱が続いており、順慶は長年にわたり久秀と争いながら勢力の維持に努める。織田信長が畿内で台頭するとこれに従い、大和支配の中核を担う存在となった。1582年の本能寺の変では、明智光秀と羽柴秀吉の間で態度を決めかねたことから「洞ヶ峠を決め込む」の語源として知られるが、実際には軽率に動かず情勢を慎重に見極めた末に秀吉方へ与している。英雄的な武功よりも、現実的な判断と外交的な駆け引きによって家と領国の存続を優先したその姿は、まさに「現実外交で大和を支える」役割を果たした武将であった。
【政治の部屋|筒井順慶】現実外交で大和を支えるNew!!
23愛知県
1561-1624を生きた武将。豊臣秀吉の親族として若くして頭角を現し、賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳七本槍」の筆頭として知られる。各地の戦いで武功を重ね、豊臣政権下では五大老・五奉行に次ぐ有力大名へと成長し、関ヶ原の戦いでは東軍の主力として徳川家康の勝利に大きく貢献した。戦後は安芸・備後およそ五十万石を与えられ、西国有数の大大名となる。しかし武断派大名として豊臣家への思いを捨てきれず、次第に徳川幕府との距離を深めていった。やがて広島城の無断修築を理由に改易され、信濃川中島へ移されるなど、その栄華は長く続かなかった。戦功によって頂点へ上りつめながら、新たな時代の政治秩序に適応することができなかったその生涯は、まさに「栄光と失脚の果てに」を象徴する武将であった。
【政治の部屋|福島正則】安土桃山時代編.51New!!
23愛知県
1563-1631を生きた武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる。もとは高い家柄の出身ではなかったが、戦場での武功を重ねることで頭角を現し、伊予国松山二十万石を領する大名へと成長した。文禄・慶長の役では水軍を率いて朝鮮へ出兵し、海上戦でも功績を挙げている。関ヶ原の戦いでは東軍に属して徳川家康を支持し、戦後は領地を加増された。さらに後年には会津四十万石へ移封され、東北有数の大名となる。戦国時代には家柄や血筋だけでなく、実力によって道を切り拓く者たちが現れた。嘉明はその代表例ともいえる存在であり、戦場での働きを積み重ねて地位と領国を築き上げた。その生涯は、まさに「武功が拓いた立身」を体現した武将であった。
【政治の部屋|加藤嘉明】安土桃山時代編.50New!!
27大阪府
1542-1583を生きた武将。摂津国茨木城主として活躍し、戦国時代から天下統一事業へと移り変わる激動の時代を生きた。はじめは池田勝正や荒木村重に仕えたが、1578年に村重が織田信長へ反旗を翻した際、清秀は主君への義理と時代の流れの間で苦しい決断を迫られる。最終的に信長方へ帰順し、一族や領民の存続を優先した。その後は羽柴秀吉の配下として各地を転戦し、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方との激戦に臨む。しかし1583年、大岩山砦を守る中で壮絶な討死を遂げた。主君への忠義が重んじられた戦国の世にあって、清秀は単なる忠臣でも裏切り者でもなく、家と領地を守るため現実的な選択を重ねた武将であった。その姿は、まさに「主君と天下の狭間で」揺れ動いた戦国武士の現実を体現している。
【政治の部屋|中川清秀】安土桃山時代編.49New!!

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