徳川九代将軍。後の八代将軍・徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸に生まれる。幼少期から健康面や発話に困難があったと伝えられ、異母弟・宗武を推す声もあったが、長幼の序を重んじる吉宗の意向により、1745年に第九代将軍に就任した。吉宗没後は側用人・大岡忠光を重用し、勘定吟味役の充実や予算制度の整備など幕政運営の改善を進める。一方で、郡上一揆をはじめとする社会不安にも直面し、幕閣を処罰する異例の裁定を下したことでも知られる。1760年に長男・家治へ将軍職を譲ったのち、田沼意次ら次代を担う人材の登用にも道を開いた。多くを語らずとも幕政の安定を支え、享保改革後の泰平を次代へ受け渡したその生涯は、まさに「言葉少なく泰平を次代へ渡す」将軍であった。
江戸時代編.42
シリーズ:泰平を紡いだ将軍たち 第4回
徳川家重
Tokugawa Ieshige
言葉少なく泰平を次代へ渡す
Information
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「言葉少なく泰平を次代へ渡す」徳川家重の物語
どのような時代を生きたのか
徳川家重が生きた十八世紀前半から半ばは、父・徳川吉宗↗による「享保の改革」が一定の成果を上げ、幕府財政と統治機構が安定を取り戻しつつあった時代でした。
家重は1712年(正徳二年)、後の八代将軍・徳川吉宗↗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれます。1716年(享保元年)に吉宗が八代将軍へ就任すると、家重は将軍家の嫡男として江戸城へ入り、後継者の立場に置かれました。しかし家重には、幼少期から発話に困難があったと伝えられています。そのため文武に秀でた異母弟・徳川宗武を推す声も一部幕閣に存在しました。もっとも、家重の身体状態については後世の編纂史料や逸話による記述も多く、近年では従来考えられていたほど重いものではなかった可能性や、後世に誇張された可能性も指摘されています。実際のところ、その実像の詳細はなお明らかではありません。
それでも吉宗は長幼の序を重んじ、家重を後継者として厳格に育て続けました。そして1745年(延享二年)、吉宗は将軍職を家重に譲り、自らは大御所として後見に回ります。こうして家重は三十三歳で第九代将軍に就任したのです。
この将軍が受け継いだもの
家重が受け継いだもの、それは、「享保の改革によって整えられた幕政の仕組みと、父・吉宗という極めて巨大な存在」でした。
家重の将軍就任後も、吉宗は大御所として江戸城西の丸に留まり、1751年(宝暦元年)に没するまで幕政に大きな影響力を持ち続けました。そのため家重治世の前半は、吉宗の改革路線を確実に引き継ぐ時期としての性格が強くなります。一方の家重は、発話の困難さによって円滑な意思疎通に課題を抱えていたと伝えられています。そのなかで側近として重用されたのが、唯一家重の言葉を正確に解したとされる大岡忠光でした。忠光は家重の厚い信任を受け、将軍の意を幕閣へ伝える側用人として幕政運営を静かに支える重要な役割を担います。
偉大な父の存在と、自ら抱える身体的な課題。家重が受け継いだのは、この二つの重みを背負いながら、なお幕府の安定と権威を維持するという極めて難しい課題だったのです。
この将軍が紡いだもの
家重が紡いだもの、それこそが、
「前面に立って派手な改革を行うのではなく、組織の機能を維持・補強し、次代へ着実に橋渡しすること」でした。家重は大岡忠光を側近として重用し、その補佐を受けながら幕政を主導していきました。父・吉宗のような巨大な構造改革を新たに断行することはありませんでしたが、勘定吟味役の機能を強化して幕府財政の監査態勢を厳格化するなど、享保の改革で整えられた制度の運用と維持に意を払いました。また、この時代には後に幕政の中心人物として重商主義政策を展開する田沼意次↗が、家重の深い執着と評価によって小姓から側用人へと頭角を現し始めています。家重の治世は目立った改革の時代ではありませんでしたが、幕府行政の管理機構を固め、次代を担う異能の人材が育つ土壌を整える時代でもありました。
家重には健康上の不安があり、酒を好んだとも伝えられています。しかし、こうした人物評の多くは後世の記録や偏見によるものであり、その実像にはなお再評価の余地が多く残されています。それでも確かなのは、家重が受け継いだ体制を守り抜き、動揺させることなく次の世代へ引き継いだという事実です。華々しい名君の影に隠れながらも、安定した継承によって泰平の骨組みを支える。それこそが家重の果たした真の役割だったのです。
その治世は何を残したのか
1761年(宝暦十一年)六月十二日、徳川家重は四十九歳でその生涯を閉じました。
家重は1760年(宝暦十年)に将軍職を長男・家治へ譲り、自らは大御所となりましたが、忠光の死や自らの病魔も重なり、翌年に世を去ります。家重の治世が残した最大のものは、華やかな改革の記名ではありません。身体的な制約を抱えながらも、信頼する側近や官僚組織を活用して政務を機能させ、父・吉宗が築いた統治の枠組みを損なうことなく次代へ引き継いだことでした。
家重の生涯が語るもの、それは統治者の価値が必ずしも雄弁さや華々しいパフォーマンスだけによって決まるものではないという歴史の真実です。歴史は往々にしてみごとな改革者を記憶します。しかし、改革の成果が定着し生き続けるためには、それを愚直に守り、運用し、次代へ渡す存在もまた絶対に欠かせません。徳川家重の生涯は、その静かなる継承の価値を私たちに教えてくれます。まさに「言葉少なく泰平を次代へ渡す」という副題にふさわしい見事な人生でした。
明日は、徳川家治
徳川家重が紡いだのは、自ら表舞台で主張することなく、受け継いだ体制を守りながら次代へと確実に橋渡しする役割でした。
その家重から将軍職を受け継いだのは、祖父・吉宗の直接の薫陶を受けて育った聡明な将軍でした。しかし、その治世は家重の時代に頭角を現した一人の側近によって、大きく彩られていくことになります。
明日登場するのは、徳川家治。
第5回、シリーズ最終回は、「将軍として泰平の絶頂を紡ぐ」徳川家治の物語に迫ります。
徳川家重にまつわるWeb Siteを取り上げました

今回のシリーズ「泰平を紡いだ将軍たち」って!?
泰平を紡いだ将軍たち言葉少なく泰平を次代へ渡す
血脈の危機を越えて
元禄という華やかな時代が終わろうとしていました。赤穂事件に揺れた世の中で、徳川幕府はなお揺るぎない権威を保っているように見えました。しかし、その内側では静かに新たな課題が積み重なりつつありました。財政の行き詰まり。制度の疲労。そして将軍家の後継者問題です。
四代・家綱、五代・綱吉と将軍後継者に恵まれない状況が続き、六代将軍には家光の孫にあたる甲府徳川家の徳川家宣が迎えられることになりました。ここで、家光以来の血脈継承は、すでに一つの岐路を迎えていました。家宣の実子として生まれた家継が将軍職を継いだものの、わずか八歳で早世すると、徳川宗家の嫡流はついに途絶え、幕府は今度は紀州徳川家から吉宗を迎えることになります。
これは単なる将軍交代ではありませんでした。泰平そのものを次の時代へ受け渡せるのか、幕府はその問いに向き合うことになったのです。家宣、家継、吉宗、家重、家治。本シリーズが描くのは、五人の将軍たちがそれぞれの時代の課題と向き合いながら、徳川の泰平を次代へつないでいった歩みです。
「継ぐ」という仕事
歴史はしばしば、何かを始めた人物を記憶します。しかし、始めることと同じくらい難しいのが、それを次代へ受け渡すことです。
家宣は幕政の立て直しに挑み、吉宗は享保の改革に取り組みました。けれども、改革は一人で完成するものではありません。作られた制度を維持し、修正し、ときには方向を変えながら受け継いでいかなければ、やがて形骸化してしまいます。家重の代には大岡忠光ら側近が政務を支え、家治の代には田沼意次が経済政策を主導し、貨幣経済のさらなる発展を後押ししました。
あまり目立たない将軍もいます。評価の分かれる将軍もいます。しかし、その誰か一人が欠けていたなら、徳川二百六十年の歴史は違ったものになっていたかもしれません。本シリーズが伝えたいのは、「名君の物語」ではなく、「泰平を受け継いだ人々の物語」だという視点です。
前シリーズ「泰平の裂け目」では、元禄という時代の中に潜んでいた葛藤や緊張を描きました。では、その裂け目を抱えたまま、徳川の泰平はいかにして続いていったのでしょうか。その答えは、一人の英雄ではなく、時代ごとに現れた将軍たちの選択の積み重ねの中にあります。
政治を変える者。制度を守る者。危機を乗り越える者。そして次代へ託す者。歴史を動かすのは、革命だけではありません。続けることもまた、大きな仕事なのです。
なお、歴史上の人物には、後世の評価や逸話によって形づくられたイメージが少なくありません。九代将軍・徳川家重についても、言語に不自由があったと伝えられる一方で、その実態については史料上の解釈が分かれています。本シリーズでは、そうした通説も検証しながら、できる限り史料に即して将軍たちの姿を追っていきます。
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