武将。徳川初代将軍。三河国の松平氏に生まれ、幼少期は今川氏・織田氏のもとで人質生活を送るなど苦難の時代を過ごした。桶狭間の戦い後に独立を果たすと、織田信長との同盟を軸に勢力を拡大し、信長没後は豊臣秀吉に従いながらも五大老の筆頭として実力を蓄えていく。1600年の関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍を破ると天下の実権を掌握し、1603年に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。将軍職を早くに秀忠へ譲った後も大御所として実権を握り続け、1615年の大坂の陣で豊臣家を滅ぼして戦国の争乱に終止符を打つ。武家諸法度をはじめとする幕府諸制度の整備を進め、二百数十年続く泰平の世の礎を築き上げた。乱世を生き抜き、忍耐と戦略によって徳川による天下を確立したその生涯は、まさに「戦国を鎮め幕府を切り開く」天下人であった。
江戸時代編.24
シリーズ:幕府を築いた将軍たち 第1回
徳川家康
Tokugawa Ieyasu
戦国を鎮め幕府を切り開く
Information
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彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

各時代の政治家たちをお届けしています
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今回のシリーズ「幕府を築いた将軍たち」って!?
幕府を築いた将軍たち
ひとりでは完成しない体制
初代が戦乱を鎮め 二代が統制を固め、三代が制度を整え、四代が政治の方向を転換し、五代が幕府の価値観に新たな色を加える。
本シリーズが描くのは、一人の英雄が成し遂げた天下統一の物語ではありません。一つの政権が、約八十年をかけて 安定した統治体制へと育っていく、五代の将軍たちの歩みです。
「未完成の連続」としての幕府
多くの人は「江戸幕府」と聞くと、家康が開いた瞬間から、完成された制度が存在していたように思いがちです。しかし実際の幕府は、一度の完成で出来上がったものではありませんでした。
家康が幕府を開き、秀忠が大名や朝廷との関係を整理し、家光が将軍権力を制度として確立していく。そして家綱の代には、武力を中心とした「武断」から、法と秩序を重視する「文治」へと流れが変わり始めます。さらに綱吉は、 儒学を重んじる政治によって、幕府の価値観そのものに変化をもたらしました。
本シリーズが伝えたいのは、体制とは一人の天才が一瞬で完成させるものではなく、代々の指導者が課題と向き合い、修正と継承を繰り返すことで 形づくられていくという視点です。"
組織や制度が本当の意味で強くなるのは、創業者が去った後です。創業者は枠組みを作ることができます。しかしその仕組みを機能させ、次の世代へ受け継いでいくためには、後継者たちによる不断の手直しが欠かせません。
秀忠の統制、家光の制度化、家綱の路線転換、綱吉の価値観の刷新。それぞれが前の代から受け継いだ課題と向き合い、時代に応じた修正を加えながら、後に二百六十年以上続く江戸幕府の基盤を積み上げていきました。
なお綱吉といえば、「生類憐みの令」による 「犬公方」の異名で知られています。しかし近年の研究では、動物保護だけでなく、弱者救済や儒教的な仁政思想との関わりも指摘され、その評価は見直されつつあります。華やかな開府の物語だけでは語り尽くせない、将軍たちの地道な積み重ね。これから五代にわたる「幕府づくり」の歴史を見ていきましょう。

「戦国を鎮め幕府を切り開く」徳川家康の物語
どのような時代を生きたのか
家康は1543年、三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生まれます。幼少期には今川家の人質として過ごすなど、苦難の多い少年時代を送りましたが、桶狭間の戦いを契機に自立し、やがて織田信長↗と同盟を結びながら、三河・遠江を中心に勢力を拡大していきました。信長の死後は豊臣秀吉↗に臣従し、関東への移封を経て、江戸を本拠とする大大名へと成長します。そして1598年に秀吉が没すると、天下の実権を巡る情勢は再び大きく動き出し、家康は次なる時代の主役として、歴史の表舞台に立つことになるのです。
この人物が向き合った「課題」とは
家康が向き合った課題とは、「戦国の争乱を終わらせ、その平和を一代限りではなく、次の世代へ受け継がれる統治体制として定着させること」でした。
秀吉が築いた豊臣政権は、秀吉個人の権威に大きく依存した体制であり、その死後、幼い秀頼を巡って諸大名の対立が表面化します。1600年、石田三成↗らを中心とする勢力との対立は、関ヶ原の戦いという天下分け目の決戦へと発展し、家康はこれに勝利しました。しかしこの勝利だけでは、真の意味での天下統一とは言えませんでした。
大坂には、なお豊臣秀頼↗が健在であり、豊臣家を旗印とする勢力も、各地に根強く残っていたからです。戦に勝つことと、その勝利を恒久的な体制へと転換させること。家康が向き合ったのは、武力による決着の先にある、持続可能な統治の仕組みを築くという、新たな課題だったのです。
この人物が示した「築き方」とは
家康が示した築き方とは、「征夷大将軍という伝統的権威を活用しながら、豊臣家の影響力を段階的に排除し、新たな統治機構を制度として確立すること」でした。
1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。しかし家康はわずか二年後の1605年、将軍職を子の徳川秀忠↗に譲りました。これは、将軍職が徳川家において世襲されるものであることを、天下に示すための、極めて計算された政治判断であったと考えられています。
将軍職を退いた後も、 家康は駿府に拠点を移し、「大御所」として、実質的な政治の実権を握り続けました。そして1614年から1615年にかけての大坂の陣によって、家康は最後まで残っていた豊臣家を滅ぼし、名実ともに、天下に並び立つ勢力を消し去ります。
なお、大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件については、家康側が言いがかりに近い形で難癖をつけたとする見方が根強い一方、当時の政治的緊張の中で、双方に解釈の余地があった事件であったとする見方もあり、評価が分かれています。
さらに家康は、秀忠政権のもとで進められた 武家諸法度や禁中並公家諸法度の整備にも関与し、諸大名や朝廷の行動を制度として位置づけながら、自らの死後も機能し続ける統治の枠組みを築き上げていきました。一代の武力によってではなく、制度と世襲の仕組みによって、 政権を未来へつなぐ。それこそが、家康が示した、幕府の築き方だったのです。
その生涯は何を残したのか
1616年、徳川家康は七十三歳でその生涯を閉じました。家康が築いた江戸幕府は、その後二百六十年以上にわたり、日本の統治体制として存続することになります。
家康が残した最大の遺産は、関ヶ原や大坂の陣における武功だけではありません。それは、戦国の乱世を終わらせ、 将軍職の世襲、法による統制、そして大御所政治による権力継承という仕組みを通じて、政権そのものを持続可能な制度へと変えたことでした。
家康の生涯が語るもの、それは天下を取ることと、その天下を長く保つ仕組みを作ることが、まったく別の才覚を必要とするという事実です。徳川家康の生涯は、そのことを私たちに教えてくれます。まさに「戦国を鎮め幕府を切り開く」という、副題にふさわしい人生でした。
明日は、徳川秀忠
徳川家康が築いたのは、戦乱を鎮め、幕府という枠組みそのものを切り開くことでした。しかし枠組みを作ることと、それを実際に機能させ続けることは、また別の課題です。
父が切り開いた幕府を受け継ぎ、諸大名や朝廷との関係を整理しながら、その統治を確かなものへと固めていった、二代目の将軍がいます。
明日登場するのは、徳川秀忠。
第2回は、「二代将軍として幕府を固める」徳川秀忠の物語に迫ります。
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