平 資盛





Taira no Sukemori (1161-1185)

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こちらのページでは平安時代に活躍した政治家

平 資盛をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

平 資盛
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

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平 資盛って

館長

平 資盛にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

武家政権の到来直前、貴族文化と武士の間の灯火のように感じるね

館長

武士であり、歌人でもあり、この対極にあった若き貴公子の二刀流の物語は、平家物語の中でもひと際優しい光を放っているようです

こんな背景

シリーズ:壇ノ浦、そしてそのあと

第3回:平 資盛 〜悲恋の和歌とともに波間に消えた若き貴公子〜

今回のシリーズ:「壇ノ浦、そしてそのあと」は…

壇ノ浦で安徳天皇 が沈み、平家は波間に消えました。
しかし、日本史はあの海で終わりませんでした。
むしろ、あの日こそが「新しい時代の痛ましい始まり」 だったのです。

平家が海に沈めた「三種の神器」は皇位の正統性を揺るがし、幼き帝を失った朝廷には、埋めようのない「空白」が生まれました。
その空白は、宮廷と武家の関係を再び緊張させ、かすかな綻びだったはずの矛盾が、次第に大きな裂け目へと変わっていきます。

海に散った者、残された者、そして立ち上がる者。

壇ノ浦は「終焉の舞台」であると同時に、その後の後鳥羽院 が武士に挑む「新たな権力闘争」の幕開けでもありました。

平家の最期を看取った武将たちの矜持。
そして失われた皇位の権威を取り戻そうとする後鳥羽院の執念。

それぞれの思惑が重なり合い、日本史は再び大きく揺れ動いていく物語を、全4回でお届けします。

第1回 平 知盛
平家の最期を見届け、「見るべきほどのものは見つ」と海へ散った総大将

第2回 平 教経
源義経を最後まで追い詰めた、平家最強の怪物的猛将

第3回 平 資盛
悲恋の和歌とともに波間に消えた若き貴公子

第4回 後鳥羽天皇
平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

壇ノ浦の海が、平家の命運を呑み込んだその日。
静の象徴・知盛、動の象徴・教経――そのいずれとも違う最期を迎えた若者がいました。

平 資盛(1161–1185)。
平 清盛の嫡男・平重盛の次男として生まれ、平家一門の中でもひときわ“雅”を纏った公達として知られました。

その四半世紀の人生は、武士としての戦いと宮廷の恋。
そこに、美しい和歌 が複雑に絡み合う、まるで儚く輝く流星のようなものでした。

貴公子・資盛の肖像

資盛は幼い頃から宮廷文化の中で育ち、和歌や楽器、儀礼に通じた教養豊かな若きエリートとして一目置かれていました。

その才能は単なる教養の枠を超え、資盛が詠んだ歌は、のちに「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に選ばれるほどの輝きを放っています。
激動の時代を生きた一人の青年としての瑞々しい感性が、後世にまで届いた証です。

しかし、資盛が平家史に深く刻んだのは、その雅な才能だけではありません。
父・重盛の死後、一門の柱石として三草山や藤戸など、源平争乱の主要な戦場に立ち続け、一族の重すぎる運命をその肩で支え続けたのです。

宮廷に咲いた恋

資盛の名を語る上で欠かせないのが、女流歌人 建礼門院右京大夫 との恋です。

彼女が後に記した「建礼門院右京大夫集」には、資盛との恋の記憶がまるで日記のように綴られています。
互いに交わした歌は、平家全盛の雅の象徴とされ、平安文学の高さを物語っています。

平家が西へ逃れ、都は炎に包まれ、兄弟が次々に戦で倒れていく中でも、資盛は彼女へ歌を送り続けました。
その恋は燃えるように激しく、そして悲しみと予感に満ちています。

あるほどが あるにもあらぬ うちになほ
かく憂きことを 見るぞかなしき
(生きているうちが生きていないようなこの世にあって、なおこのようなつらいことを見るのは悲しい)

すでに悟っていたかのごとく。
それは、自らの行く末と、一門の行く末。

逃れられない運命

寿永2年(1183)、木曾義仲の軍勢が迫り、平家は住み慣れた京を捨てて西へと都落ちします。
このとき、資盛は一族と行動を共にしながらも、一人密かに京へ引き返し、後白河法皇のもとへ参じて庇護を求めようとしました。
父・重盛は、平家一門の中で最も法皇と親しく、両者の間に立って「クッション」の役割を果たしていた人物でした。
資盛の中には、父が守り抜こうとした「宮廷との絆」を頼りに、平和的に事態を収めたいという願い、あるいは武士としての殺伐とした運命から逃れたいという、切実な想いがあったのかもしれません。

しかし、再会は叶わず、一門とともに荒れ狂う戦場を転戦し、三草山では敗北し、一ノ谷では弟・師盛を失い、屋島でも敗れ続けます。

壇ノ浦、愛と雅を抱いて散る

元暦2年(1185)、壇ノ浦。
平家を追い詰め続けた天才源 義経 の操る水軍の前に、平家の船団は次々と沈んでいきました。

安徳天皇 を抱きしめる安徳天皇の祖母・平時子(二位尼) 、入水を決意する安徳天皇の母・平 徳子(建礼門院) そして、見るべきほどの事は見つ」と悟った平 知盛 。

資盛もまた覚悟を決めます。
その最期は、知盛の覚悟や教経の勇猛とは対照的に、平家が誇った「雅」の終焉

その胸に抱いたのは、恋人と交わした和歌の記憶だったのかもしれません。

さて次回は、壇ノ浦で安徳天皇が入水する以前、皇統の断絶を避けるため朝廷は急ぎ擁立された一人の幼き帝の物語です。時代は、いよいよ鎌倉時代を迎えます。平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝「後鳥羽天皇」が登場です。

1180-1239を生きた政治家(第82代天皇)。高倉天皇の第四皇子。壇ノ浦で安徳天皇が入水する以前、皇統の断絶を避けるため朝廷は後鳥羽天皇を急ぎ擁立し、わずか3歳で即位させた。このため 1183〜1185年の2年間は安徳天皇と後鳥羽天皇が同時に在位する異例の時代 となり、さらに壇ノ浦では三種の神器の宝剣(草薙剣)が海へ沈んだまま戻らず、即位は正統性に揺らぎを抱えた出発となった。成長後は和歌・書道・楽器に卓越した才能を発揮し文化的威光を放つ一方、武家政権が台頭する新時代にあって天皇親政の復権を強く望み、のちに上皇(院)として政治改革に乗り出す。頼朝没後の幕府の揺らぎを機に皇位の権威回復を図るが、その強烈な政治意志はついに承久の乱へと結実する。敗北後は隠岐へ流されるも、最期まで文芸と帝としての誇りを持ち続けた。後鳥羽院は、失われた帝の力を取り戻そうとした最後の強い上皇であった。
【政治の部屋|後鳥羽天皇】鎌倉時代編.1

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1662-1712を生きた徳川六代将軍。甲府藩主・徳川綱重の長男として江戸に生まれるが、庶子であったため出生を伏され、家臣の養子「新見左近」として育てられた。後に甲府徳川家を継ぎ、五代綱吉に実子がなかったことから、家光の孫という血筋を背景に将軍後継者となり、1709年に四十八歳で六代将軍に就任。側用人・間部詮房や儒学者・新井白石を登用し、生類憐みの令を含む綱吉期の諸政策を見直すとともに、通貨・外交制度の改革を進め、「正徳の治」と呼ばれる幕政刷新に取り組んだ。在職はわずか三年余りだったが、その改革は後の幕政にも大きな影響を残した。まさに「正徳の治で泰平を紡ぎ直す」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家宣】正徳の治で泰平を紡ぎ直すNew!!
15新潟県
1670-1703を生きた武士。越後国新発田藩士・中山弥次右衛門の長男として生まれるが、幼くして両親を失い、父の浪人・死去を経て親族に引き取られながら育った。江戸へ出て堀内道場に入門すると剣才を発揮して免許皆伝となり、高田馬場の助太刀で武名を上げる。この活躍を見込んだ赤穂浅野家の堀部金丸から婿養子に望まれ、赤穂藩士に列した。1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となると、暴徒から赤穂藩邸を守り抜いた後、江戸急進派の中心人物として一貫して吉良討伐を主張し続ける。慎重な大石良雄としばしば対立しながらも、ついに主君の仇討ちの決行に至り、1702年12月の吉良邸討ち入りでは裏門から突入して奮戦した。討ち入り後は幕命により切腹し、主君と同じ泉岳寺に葬られている。忠義を貫くためには時に組織の慎重論に抗うことも辞さず、その信念を最後まで貫いたその生涯は、まさに「忠義と反逆の間に生きる」武士であった。
【政治の部屋|堀部武庸(安兵衛)】忠義と反逆の間に生きるNew!!
28兵庫県
1659-1703を生きた武士。播磨赤穂藩浅野家の筆頭家老の家に生まれ、若くして家督を継いだ。平時は「昼行燈」とも評されたが、1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となる非常事態に直面すると、その真価を発揮する。籠城か恭順かで揺れる藩論をまとめて赤穂城を無血開城し、藩札の換金や家臣への分配にも心を配って藩の混乱を最小限に抑えた。その後は浅野家再興を幕府へ働きかけながら、江戸急進派の逸る心を抑えつつ機をうかがい続ける。しかし再興の望みが絶たれると、ついに吉良討伐を決意した。1702年12月、四十七人の同志を率いて本所の吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らすと、幕命に従い泉岳寺で自刃した。忍耐と統率力によって家臣団をまとめ上げ、主君の死によって生じた裂け目に忠義という形で応えたその生涯は、まさに「忠義で裂け目に応える」武士であった。
【政治の部屋|大石良雄(内蔵助)】忠義で裂け目に応えるNew!!
13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!

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