後鳥羽天皇





Emperor Go-Toba (1180-1239)

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こちらのページでは鎌倉時代に活躍した政治家

後鳥羽天皇をお楽しみください

Information

教科書で見かけたあの有名人
実は必死に国をデザインした熱い政治家の一人だった!?
彼らが命を懸けて守ろうとした「日本」
神話の英雄から反逆者などなど、政治の部屋よりお届けします!

後鳥羽天皇
イラストポートレート Syusuke Galleryより

館長

いらすとすてーしょんでは政治の部屋より鎌倉時代に活躍した政治家として後鳥羽天皇イラストポートレートをお届けします

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後鳥羽天皇って

館長

後鳥羽天皇にまつわるWeb Siteを取り上げましたので、ご参考に!

シューちゃん

「不屈の帝」その姿があったからこそ、武家社会に飲み込まれることがなく、独自の文化や誇りを守り抜いていけたのかもしれないね

館長

壇ノ浦の戦いを経て武士が主役となる新たな時代、その中で後鳥羽天皇という巨大な存在が放った輝きは、今もなお歴史の転換点において光り輝いています

こんな背景

シリーズ:壇ノ浦、そしてそのあと

第4回:後鳥羽天皇 〜平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝〜

今回のシリーズ:「壇ノ浦、そしてそのあと」は…

壇ノ浦で安徳天皇 が沈み、平家は波間に消えました。
しかし、日本史はあの海で終わりませんでした。
むしろ、あの日こそが「新しい時代の痛ましい始まり」 だったのです。

平家が海に沈めた「三種の神器」は皇位の正統性を揺るがし、幼き帝を失った朝廷には、埋めようのない「空白」が生まれました。
その空白は、宮廷と武家の関係を再び緊張させ、かすかな綻びだったはずの矛盾が、次第に大きな裂け目へと変わっていきます。

海に散った者、残された者、そして立ち上がる者。

壇ノ浦は「終焉の舞台」であると同時に、その後の後鳥羽院 が武士に挑む「新たな権力闘争」の幕開けでもありました。

平家の最期を看取った武将たちの矜持。
そして失われた皇位の権威を取り戻そうとする後鳥羽院の執念。

それぞれの思惑が重なり合い、日本史は再び大きく揺れ動いていく物語を、全4回でお届けします。

第1回 平 知盛
平家の最期を見届け、「見るべきほどのものは見つ」と海へ散った総大将

第2回 平 教経
源義経を最後まで追い詰めた、平家最強の怪物的猛将

第3回 平 資盛
悲恋の和歌とともに波間に消えた若き貴公子

第4回 後鳥羽天皇
平家滅亡後の世界で、再び武士に挑んだ不屈の帝

壇ノ浦の海に幼い安徳天皇 が沈んだとき、日本の皇位は一瞬、宙に浮きました。
しかし、後鳥羽天皇の物語は、その安徳天皇が入水する二年前に始まっていました。

寿永2(1183)年。
平家が安徳天皇を奉じて西国へ逃れ、京都から皇位が消えたその時、皇統の断絶を恐れた後白河院によって、高倉天皇の第四皇子・後鳥羽天皇(1180–1239)がわずか三歳で即位します。

安徳天皇は在位したまま逃亡中
その一方で京都では後鳥羽天皇が即位する

こうして1183〜1185年、日本史でも異例の 「両帝並立」 の時代が生まれます。
さらに壇ノ浦で、三種の神器のうち「宝剣(草薙剣)」が海へ沈み、ついに回収されることはありませんでした。
神器なき即位という、正統性への揺らぎ。この心の棘が、のちに彼を「失われた権威を取り戻す」という強烈な執念へと突き動かしていくことになります。

あらゆる才能を開花させる

成長した後鳥羽天皇は、驚くべき多才ぶりを発揮します。

  • 和歌
    藤原定家らを従え『新古今和歌集』を編纂
  • 武芸
    自ら刀を打ち(御所焼)、蹴鞠や流鏑馬にも熱中
  • 政治への深い関心
    緻密な儀礼再整備による皇威の復活

その姿はまさに「万能の帝」。
しかし、その胸の奥に渦巻いていたのは、台頭する武士たちへの強烈な反発でした。

「天皇親政」への執念と、承久の乱

源 頼朝が鎌倉幕府を打ち立て、政治の実権が武士へと移った新時代。
後鳥羽上皇(院)は、これを決して受け入れませんでした。

「なぜ帝が武士に頭を下げねばならぬのか」
「この国の中心は、あくまで天皇であるべきだ」

1199年、頼朝がこの世を去り、幕府に揺らぎが生じた機を彼は逃しませんでした。
1221年、ついに挙兵。
それが、歴史に名高い 「承久の乱」 です。

日本史上唯一、天皇が武力で武家政権を打倒しようとしたこの決戦でしたが、結果は幕府軍の圧倒的な物量の前に完敗。
後鳥羽院は、遠く隠岐の島へと流されることとなりました。

敗れても折れなかった「不屈の帝」

隠岐での生活は過酷でしたが、その院の心の炎は消えませんでした。
配流先でも和歌を詠み続け、自ら刀を鍛える。
その姿は、政治的な敗北すらも超越した、「帝としての魂」を研ぎ澄ます日々でもありました。

政治の表舞台からは退かされたかもしれません。
しかし、命を懸けて守ろうとした「天皇の権威」と、その不屈の精神は、日本文化の極致(新古今和歌集など)として、今もなお日本史の灯火のように燦然と輝いています。

鎌倉という革命

後鳥羽院が隠岐へと流され、朝廷の反撃が静かに幕を閉じたとき、
都の人々はようやく悟ることになります。

もう、権力の中心は京の内にはない

この承久の乱の敗北は、武士が国を治めるという新しい秩序が、もはや逆戻りできない現実となった瞬間でした。
だが、その「革命」の始まりはもっと早く、平家滅亡の直後、ある一人の武将の手によってすでに動き出していました。

その中心にいたのが、平家を滅ぼし、武士の都「鎌倉」を築き上げた 源 頼朝です。

頼朝が描いた政権構想、それを支え、時に叱咤し政治の表と裏を共に歩いた北条政子。
頼朝亡き後、という新しい秩序の中で文化と孤独の狭間を生きた源 実朝。
武士政権の矛盾と誇りのはざまで散っていった和田義盛。
そして、鎌倉という「武士の国」を初めて形にした猛者たち。

明日から始まる新シリーズ「鎌倉という革命」では、天皇でも藤原氏でも平家でもない、「武士の国」を最初につくり上げた人々の物語がスタートします。

1147-1199 を生きた鎌倉幕府初代将軍。平治の乱で父を失い、20年もの流人生活を伊豆で耐え忍ぶ。その潜伏期間は、のちに武士の世を創り出す「革命」の礎となる。挙兵後は東国武士の信頼を勝ち取り、宿敵・平家を滅ぼすと、鎌倉に独自の政治拠点を構築。全国に「守護・地頭」を置く画期的な制度を整え、貴族ではなく武士が土地を治める日本初の本格的な武家政権を樹立する。冷静な知略と強烈な統率力で平安から中世への扉を開いた。その統治システムは、死後も北条氏らによって引き継がれ、その後の日本の政治構造を決定づける根幹となった。いらすとすてーしょんでは、出生地を愛知県とさせていただきます。 イラストポートレートは伝源頼朝像を参照しております。
【政治の部屋|源 頼朝】鎌倉時代編.2

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政治の部屋
1662-1712を生きた徳川六代将軍。甲府藩主・徳川綱重の長男として江戸に生まれるが、庶子であったため出生を伏され、家臣の養子「新見左近」として育てられた。後に甲府徳川家を継ぎ、五代綱吉に実子がなかったことから、家光の孫という血筋を背景に将軍後継者となり、1709年に四十八歳で六代将軍に就任。側用人・間部詮房や儒学者・新井白石を登用し、生類憐みの令を含む綱吉期の諸政策を見直すとともに、通貨・外交制度の改革を進め、「正徳の治」と呼ばれる幕政刷新に取り組んだ。在職はわずか三年余りだったが、その改革は後の幕政にも大きな影響を残した。まさに「正徳の治で泰平を紡ぎ直す」将軍であった。
【政治の部屋|徳川家宣】正徳の治で泰平を紡ぎ直すNew!!
15新潟県
1670-1703を生きた武士。越後国新発田藩士・中山弥次右衛門の長男として生まれるが、幼くして両親を失い、父の浪人・死去を経て親族に引き取られながら育った。江戸へ出て堀内道場に入門すると剣才を発揮して免許皆伝となり、高田馬場の助太刀で武名を上げる。この活躍を見込んだ赤穂浅野家の堀部金丸から婿養子に望まれ、赤穂藩士に列した。1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となると、暴徒から赤穂藩邸を守り抜いた後、江戸急進派の中心人物として一貫して吉良討伐を主張し続ける。慎重な大石良雄としばしば対立しながらも、ついに主君の仇討ちの決行に至り、1702年12月の吉良邸討ち入りでは裏門から突入して奮戦した。討ち入り後は幕命により切腹し、主君と同じ泉岳寺に葬られている。忠義を貫くためには時に組織の慎重論に抗うことも辞さず、その信念を最後まで貫いたその生涯は、まさに「忠義と反逆の間に生きる」武士であった。
【政治の部屋|堀部武庸(安兵衛)】忠義と反逆の間に生きるNew!!
28兵庫県
1659-1703を生きた武士。播磨赤穂藩浅野家の筆頭家老の家に生まれ、若くして家督を継いだ。平時は「昼行燈」とも評されたが、1701年、主君・浅野長矩が江戸城内で吉良義央に刃傷に及び即日切腹、赤穂藩が改易となる非常事態に直面すると、その真価を発揮する。籠城か恭順かで揺れる藩論をまとめて赤穂城を無血開城し、藩札の換金や家臣への分配にも心を配って藩の混乱を最小限に抑えた。その後は浅野家再興を幕府へ働きかけながら、江戸急進派の逸る心を抑えつつ機をうかがい続ける。しかし再興の望みが絶たれると、ついに吉良討伐を決意した。1702年12月、四十七人の同志を率いて本所の吉良邸に討ち入り、主君の無念を晴らすと、幕命に従い泉岳寺で自刃した。忍耐と統率力によって家臣団をまとめ上げ、主君の死によって生じた裂け目に忠義という形で応えたその生涯は、まさに「忠義で裂け目に応える」武士であった。
【政治の部屋|大石良雄(内蔵助)】忠義で裂け目に応えるNew!!
13東京都
1641-1703を生きた高家旗本。足利将軍家の支流という名門・吉良家に生まれ、朝廷儀礼に精通した高家肝煎として、大名や幕閣からも礼法の教えを乞われる立場にあった。1701年、勅使饗応役を務める播磨赤穂藩主・浅野長矩の指南役を務めていた最中、江戸城本丸大廊下(松の廊下)にて長矩から突如斬りつけられる。将軍・徳川綱吉は長矩を即日切腹・改易としたが、義央にはお咎めがなく隠居のみで済まされた。この処分の不均衡に納得できなかった浅野の遺臣・大石良雄ら赤穂浪士は翌1702年、本所の吉良邸に討ち入り、義央の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に供えた。生前の義央には賄賂を求めたとの風説が広まったが、その真偽については諸説あり、後世の忠臣蔵によって形成されたイメージも少なくない。浅野長矩から見れば遺恨の相手であり、大石良雄ら赤穂浪士から見れば討つべき仇であり、一方では礼法を司る名門高家でもあった。一つの刃傷から始まった歴史的事件の渦中に立ち、その評価が今なお分かれるその生涯は、まさに「裂け目の中心に立つ高家」であった。いらすとすてーしょんでは、出生地を東京都とさせていただきます。
【政治の部屋|吉良義央(上野介)】裂け目の中心に立つ高家New!!

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